銀座教会
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銀座の鐘

天地の造り主を信ずる

説教集

更新日:2023年06月24日

2023年6月25日(日)聖霊降臨後第4主日 銀座教会 主日礼拝(家庭礼拝) 伝道師 山森 風花

創世記1章1〜5節

 聖書日課に従って、本年度は主の祈りを学んで来ましたが、これからしばらくの間は使徒信条についてひとつずつ学んでいきます。本日はこの使徒信条の中でも、「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」という使徒信条の最初の言葉に置かれている、「天地の造り主」ということについて皆様と共に学んでいきたいと思います。
 私たちが使徒信条の「天地の造り主」について考えるとき、まず、触れておかねばならないことがあります。それは、私たちが日本語で告白しているこの使徒信条では、「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」という順番になっていますが、元々の順序では「全能の父なる神」という言葉が「天地の造り主」の前に置かれているということです。この順序について、わざわざ触れたのは、この「全能の父なる神」こそが、私たち人間を含むありとあらゆる天地万物を造られた「天地の造り主」であるということは大切なことだからです。
 また、この使徒信条が成立した歴史的な話においても、この順序について触れることは重要です。実は私たちが毎主日に告白している使徒信条は、今、私たちが告白している形がいきなり完成したのではありません。そうではなく、時代を重ねて段々と発展し、今の使徒信条へなったと考えられています。この使徒信条が発展し、今の形になるまでの歴史の中で、後から「天地の造り主」というこの言葉は加えられていったのでした。
 ですから、最初期の使徒信条では「全能の父なる神」についてしか言われていなかったのです。しかし、キリスト教が地中海世界へと伝道されていく中で、この「全能の父なる神」がどのようなお方であるかということかをより詳しく使徒信条の中に加え、そして、告白していく必要がでてきました。
 なぜなら、私たちが信じ、告白している全能の父なる神、天地の造り主なる神様は、異邦人の神、それはまた、この日本において信じられている神々とは全く異なるお方であり、また全く違う方法で、天地万物を造られたお方だからです。それは本日共にお読みしている創世記 1 章 1-5 節においても、すでに明らかにされています。
(1)初めに、神は天地を創造された。(2)地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。(3)神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。(4)神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、(5)光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
 今お読みしましたように、古今東西の神話とは異なり、創世記においては、全能の父なる神様がどのようにして生まれたお方であるのかということについては全く触れられていません。なぜなら、聖書で証しされている神様はうまれたり、造られたようなお方ではないからです。
 また、神様は何か材料を用いて世界を創造したわけでもないのです。「無からの創造」と呼ばれる、そのような何も道具や材料を用いることなく、天地万物を創造をされたお方、それが私たちの全能の父なる神、天地の造り主なる神様なのです。
 このように、神様が材料や道具を一切用いずに「無からの創造」によって、天地万物を創造されたということは、神様が何物にも依存することなく、ただ神様の自由なご意志に基づいて天地万物を、この私たち人間を含んだすべての被造物を創造されたということです。
 では、そもそも何故、父なる神様は天地万物を創造されたのでしょうか。神様は「無からの創造」をされたことからも明らかなように、何か天地万物を創造する必要があったから天地万物を造られたわけではありません。また、私たち被造物の側に何か造られるべき根拠があったわけでもないのです。そうではなく、それは「天地の造り主」であられる神様が、「全能の父なる神」だからこそ、神様は私たちを、この天地万物を造られたのです。
 すでに本年度、私たちは主の祈りの学びの中で、「天にまします我らの父よ」と呼びかけ、祈ることができるようにと、他でもない神の御子、イエス・キリストによって教えられ、また命じられているということを学びました。つまり、父なる神様の独り子であられるイエス様によって、私たちは祈りを通して、父なる神様との愛の交わりの中に招かれているのです。このように、主の祈りを通して示されているように、私たちが使徒信条によって信じ、告白している「全能の父なる神」とは、愛の父なる神様であられるのです。そして、こ の「全能の父なる神」は、愛の神であられるゆえに、その全能を用いて天地万物を創造され たのです。
 ですから、まず、「全能の父なる神」、そして「天地の造り主」という順番が大切なのです。なぜなら、神様が天地万物を創造された根拠は、ご自身が「全能の父なる神」であり、それゆえに「天地の造り主」として、私たちを愛によって創造してくださったからです。このようにして、私たち教会は、私たち被造物を、ただご自身の愛によって創造してくださったこの「全能の父なる神」を、「天地の造り主」を信じ、告白する群れとして、今この地上において生かされているのです。
 さて、ここまで私たちは、「天地の造り主」なる神様とは、どのようなお方であり、また、何故、天地万物を創造されたのかということについて見てきました。次に、この「天地の造り主」という言葉から示されている、神様と世界の関係について見ていきたいと思いま す。
 私たちがこの「天地の造り主」という言葉によって信仰を告白するとき、それは神様が世界とは同一ではないと言うことを告白することになります。神様と世界は全く切り離されているのです。
 これは私たちが生きるこの日本における宗教観、つまり、ありとあらゆるものに神々がいるという宗教観とは全く異なります。ですから、この使徒信条を通して、「天地の造り主を信ず」と告白するとき、私たちはかつて生きてきた宗教観とは全く異なる立場に立って生き、そして、この地上において、信仰の戦いを生きる者とされているのです。
 また、それだけではなく、神様こそが天地万物の創造主であると認めるとき、私たちは自分が造られた存在、被造物であると認めることになります。それは自分自身を中心に、つまり、神とする生き方から離れると言うことを意味します。ですから、自分が被造物であり、全能の父なる神様、このお方こそが造り主であると信じ、告白するその時にこそ、私たちは初めて、自分自身が被造物として創造主なる神様に頼らなければ生きていけない、そのような存在であるということに気づく事ができるのです。
 そして、このように、自分自身を、また世界を、創造主なる神様に頼らなければ生きていけない被造物であると知るとき、私たちは父なる神様が世界を創造された後、造られたこの 世界から手を引かれたわけではないということをも知ることができます。
 なぜなら、先ほど確認しましたように、天地万物を造られた全能の父なる神様は、愛の神様であられお方だからです。愛であられるお方が世界を、この私たちを創造されたのです。それなのにどうしてこの愛であるお方が、世界から手を引かれることなど、また、見捨てられることなどあるでしょうか。いや、そんなことは決してありえないのです。それは、私たちが今生きていること、そして、この世界が存在していることからも明らかです。
 もし、全能の父なる神であり、天地を造られた神様が世界を愛すことをやめ、見捨てるようなことがあれば、世界、また私たちは存在することなどできないでしょう。ですが、世界は、また、私たちは今、神の愛によって創造された被造物として、生きて存在しているのです。それは父なる神様が私たちを今も愛し、そして、この世界を守ってくださっているからです。
 また、父なる神様は世界を創造され、守ってくださるだけではなく、世界を救うために、今も働いてくださっているのです。それはかつて愛すべき御子を、私たちの救い主イエス・キリストをこの世界へとお送りくださり、そして、すべての人をご自身のもとへと呼び招くために、今もこの地上にキリストの体である教会を立てて、福音を宣べ伝えてくださっているとおりです。このように、私たちが「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と告白するこのお方は、ただご自身の自由な愛によって私たちを創造してくださり、また、この愛によって、私たちを救ってくださる、そのような愛のお方なのです。
 このような愛の神様によって、私たちは創造され、そして、選ばれ、招かれて、今、キリスト者とされているのです。ですから、この地上での信仰生活の戦いを、「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と告白しつつ、終わりの日、完成の日に至るまで、この全能の神であられ、父なる神様であられ、私たちすべての創造主なる神様に信頼し委ねつつ、祈りと感謝と賛美をもって、この神様を宣べ伝えつつ、歩んで参りたいと願います。

 祈り 天の父なる神さま。私たちは使徒信条を通して、あなたへの信仰を告白する群れとし て、この地上において立たされています。使徒信条を告白するたびに、私たちを含むすべて の天地万物を造られたあなたの愛に感謝いたします。また、私たち被造物を愛によって創造 してくださったあなたは、今も、そして、とこしえに私たちをその愛の御手によって導いて くださるお方であるということをも重ねて感謝いたします。どうかあなたに愛されている者 として、この愛をまだ知らずに生きている方々に宣べ伝えるものとして、私たちを地の塩、 世の光としてお用い下さい。アーメン。