乙女マリアより生まれ
説教集
更新日:2023年07月08日
2023年7月9日(日)聖霊降臨後第6主日 銀座教会 主日礼拝(家庭礼拝) 副牧師 川村 満
マタイによる福音書1章18~25節
18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していた が、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。 19 夫ヨ セフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろ うと決心した。 20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子 ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのであ る。 21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪か ら救うからである。」 22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われて いたことが実現するためであった。23「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名は インマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味であ
る。 24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、 25 男の子 が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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1、 聖霊によりて宿り
今日は使徒信条の「聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ」という箇所の意味と、その信仰から得られる恵みについて、聞いて行きたいと思います。主イエスは、聖霊によって、処女であるマリアからお生まれになった。それは、神の力によって、お生まれになったと言うことであります。その生まれに、男性の介入がなかったのです。つまり神様ご自身の力によって、ガリラヤの一人のおとめを通してお生まれになったのであります。
この「処女降誕」という教理は、これまで、いろんな議論が起こされた教理であり、また、主イエスの十字架と復活は信じるが、マリアから主イエス・キリストがお生まれになったとはどうも信じがたい、そのように言う人がこれまで多くいたのです。男女の営みがないのに、勝手に子どもが生まれるということはどうも信じがたいというのです。しかし、神の御子は、決してマリアから勝手に生まれてきたというわけではありません。この教理が語ることで、最も大切なこと、急所はこうであります。すなわち、神の御子は「聖霊によって」宿られたという事です。神の御子が聖霊によって、地上の存在となられ、おとめマリアよりお生まれになったというのです。そこに神の介入があったということ。神が、一人のイスラエルの少女の身体を通して、受肉されたこと。そこに意味があるのです。ここにおいて、主イエス・キリストという方が、どのような性質をお持ちのお方であったかという事がわかります。主イエスは、神の子であると聖書は伝えます。永遠の昔から存在しておられた方であり、私たち人間と同じ被造物ではなく、唯一、神御自身からお生まれになった方である。この永遠からおられる神の御子が、人間になられたと聖書は伝えます。なぜ神の御子が人間になられたか。それは、わたしたちの罪を、わたしたちの代わりに担って、十字架という罰をお受けになるためには、まず人間にならなければならなかったからです。しかし、それは単なる人間であっては意味がないのです。わたしたち人間は皆、罪人であり、それゆえに、罰を受けて滅んでしまうのが当然の存在であります。そのような人間が、全人類の罪を負うことなどは出来ません。すでに罪人であるからです。ですから、人類の罪の身代わりとして死ぬことのできる者がいるとするならば、それはまず人間であること。それも罪のない人間でなければならないのです。けれども、ただ罪のない人間であるだけではまだ不十分であります。たとえ罪がない人間であったとしても、罪を持った人間の身代わりとして滅びるならば、そのまま陰府に落ちていくままで、そこから這い上がることなどはできません。神としてのご性質があって初めて、わたしたちの罪を贖うことができるのです。このように、神としてのご性質と人間としての性質を共に持った方が初めて、わたしたちを贖うこと。サタンの支配から買い戻すことができるのです。主イエスは、まさにそのような方でありました。全き神でありながら、全き人間としてお生まれになったのです。
このことを突き詰めていくのは、少しややこしくて分かりにくいという方がおられるかもしれません。しかし大切なことでもあります。
初代のキリスト教会の時代に、グノーシスという異端がはびこったことがありました。このグノーシスという人たちは、こういう考えの人たちでありました。イエス・キリストは神である。しかし、まことの人ではない。ただ仮の姿として、人間の姿を取られただけで、その本質は神であった。人間ではなかった。そのように言う人々であったのです。その考えの背景には、ギリシャ哲学の背景があったようです。ギリシャの人々は、人間の身体は汚れていると考えていました。聖なる神がこの汚れた肉体を、とられるなどとはおかしなことだと考えたのです。そうでありますから、神の御子であられる主イエス・キリストが人間として受肉されたということが、とても重要な意味を持つようになったのです。ヨハネの第一の手紙 4 章 2 節から 3 節にこのようにあります。「イエス・キリストが肉となって来られたという事を公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊がわかります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。」 神の霊、すなわち聖霊によって初めて、わたしたちは信仰を与えられ、イエスを主と告白することが許されるとは、すでに以前にお伝えしました。しかし、聖霊によってイエスを主と 告白するとき、聖霊による告白は必ず、イエスは肉をとられた。すなわち全き人となられたのだと告白するのだと、ここでヨハネは告げているのです。曖昧に、イエスは人間ではないとか仮の姿をとられただけだなどというものは、神から出ていない。神ではなく、反キリスト、すなわちサタンから出ているのだというのです。この手紙も、グノーシスと言われた人々と戦っているというのがよくわかります。イエス・キリストが肉体をとって来られたということを否定しようとする考え方は今でもあるようです。しかしそれは間違った考えで す。主イエスを受肉させた聖霊は、わたしたちに、イエス・キリストが肉体をとって来られたということを告白する心をお与えになっているのです。主イエス・キリストはただ神であり、霊的な存在であって、人間の汚れた姿をお取りにならなかったというのではなくって、わたしたちと同じ肉体を取ってくださったのです。主イエスは本当に、人間マリアから生まれて、人間となられたのです。
そしてこのことについて考える上で、大切な御言葉があります。ガラテヤの信徒への手紙第 4 章の 4 節です。このようにあります。「神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。」すべての者は、神の戒めの下に呻くように生きていました。その掟の裁きの下に置かれる人と全く同じところに、同じ人として主イエスが身をおいてくださったのです。そうして、人間が全うできない神のおきてを、1人の罪なき人間として全うされたのです。その主イエスの義を、わたしたちキリスト者は身にまとうことが許されているのです。罪人であるにもかかわらず、主イエスの義の故に、神の御前において義人とみなされ、聖なる者とみなされているのです。そして、主イエスが地上において歩まれた全き歩みは、その最後は十字架における死でありましたが、それだけではなく、その御生涯の全てが、苦しみの十字架を負ったものであったといえます。それは人々の罪の苦しみを共に負われたゆえの苦しみでありました。ですから、主イエスは、そこにおいて、まことに人間としての苦しみをわたしたちと同じように経験してくださったが故に、わたしたちがこの地上において苦しむ時、その苦しみと関わりのない方ではないのです。今も主は、そのわたしたちの苦しみを担い、共に苦しみ、共に喜び、わたしたちを見守っておられるのです。ヘブライ人への手紙 4 章 15 節にこのようにあります。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪は犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」
神が人となられた。全き人間となられた。ここにこそ、神の愛が見えてまいります。神は遠く高いところでわたしたちの苦しみを眺め、御自身のお決めなさった戒めを全うできない哀れな人間どもを、容赦なく裁かれる、そんな方ではないのです。わたしたちの知らないとき、わたしたちが思い浮かべもしなかった仕方で、神はわたしたちの生きる地上の世界に降られた。わたしたちと同じ姿で、同じ手足、同じ心をもってこの地上に生きられた。そこで、わたしたち人間の痛みを知ってくださった。重い皮膚病の人々がその病のゆえに、家族や、共同体から断絶され、疎外感と病の悲しみの中にいるのをほうっておかれませんでした。その病を憐れみ、癒されたのです。また、徴税人や、売春婦といった人々、日陰の暮らしをしているような人々を愛し、その友になられました。実に人となられたことによって、主イエスはわたしたちと同じ位置に立ってくださったのです。
わたしたちはこれまで、その人生においてさまざまな苦しみを経験してきました。人に傷つけられたこともあります。責任感でつぶれそうになったこともあります。寂しさに涙が出たこともあります。病気で何日も寝込んだり、手術の不安、怪我の痛み、身体の弱さで苦しんだことがあります。今そのような苦しみのうちにいる人もおられるでしょう。そういった全ての人間としての苦しみを、主イエスは経験してくださっているのです。それだけではない。今、わたしたちが苦しんでいる苦しみを、わたしたちの内におられる霊によって、よくご存知なのです。私たちの内に霊が来られたこと。ペンテコステの出来事を通して、信仰者全てのうちに聖霊が今も共におられることを皆さんもすでによくご存知であられると思います。その霊を通して、主イエスはわたしたちの苦しみを共に苦しんでおられる。わたしたちの苦しみをご自分の苦しみとしてくださっているのです。そしてわたしたちを憐れみ、見守ってくださっている。それも全て、主イエスが人となられたがゆえにおできになることであります。人とならなければ、神はわたしたちとそこまでに深い、深い接点をもつことはできなかった。神の御子の受肉。それはわたしたちが神と一つになるための出来事であります。
わたしたちの体は有限であります。わたしたちの体は年をとるにつれて弱くなり、老いが目に見えるかたちで迫ってきます。しかし、そういう弱い、有限なる身体を主が取ってくださったという事。神の御子がこの肉体をもつ人間になられたのだということをまことに信じることができるからこそ、わたしたちは復活と永遠の命を希望することができるのであります。もしも主イエスがまことの人間ではなかった、それゆえにわたしたちとは違うものでしかなかったというならば、わたしたちは死に向かう肉体の中でただ失望に向かうことしかできません。この弱くなっていく肉体。そしてこの肉体の中で経験する苦しみも全て、主イエスが、経験し、その死に至るまで経験しつくしてくださり、そして神として死を乗り越えてくださったのだという事を信じる信仰において、初めて希望を持って歩むことができるのです。わたしたちの肉体が、わたしたちの心がいかに弱くとも、この主イエスの御業のゆえにわたしたちは神と一つであるからです。
わたしたちが、この「聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ」という使徒信条の告白を信じるとき、ただマリアが処女であるのに子どもを産めるはずはない、といったような論議をしても意味はないのです。そこにわたしたちの得る恵みはありません。そこで大切なのは、神が人となられたということ。わたしたち人間と神の仲保者として、わたしたちの罪を贖い、神の子とするために、神の子が人間となられたということを伝えるのです。そこに神の尊い御計画があります。わたしたちへの愛はクリスマスの出来事を通して始まり、そして今も続いているのです。わたしたちはこの処女降誕の信仰を、そのような恵みとして受け止めて行きたいのです。
祈りをささげます。
天の父なる御神。あなたの御子、イエス・キリストが、わたしたちと同じ肉体をとられ、1 人の女から生まれたという神秘を思います。この出来事が、単なる神話なのではなく、まさにわたしたちが生ける神であるあなたと一つとなるために、神がわたしたちと同じ人間となられ、わたしたちと同じ苦しみを味わい尽くし、死を経験されながら復活によって死を滅ぼされるという大いなる御業のためであったということを思い、心から感謝いたします。この主イエス・キリストの恵みに与り、滅びるべき身体、滅びるべき魂でありながら、神の命に与っていることを信じます。キリストの与えてくださる喜びに生きつつ、復活の希望を持って歩んでいくことができますようにお導きください。
この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。