陰府にくだられた主イエス
説教集
更新日:2023年07月22日
2023年7月23日(日)聖霊降臨後 第8主日 銀座教会創立133年 記念礼拝 家庭礼拝 牧師 髙橋 潤
ローマの信徒への手紙5章6~8節
6 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者の ために死んでくださった。7 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人の ために命を惜しまない者ならいるかもしれません。8 しかし、わたしたちがまだ罪人 であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわ たしたちに対する愛を示されました。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
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使徒信条の中で「死にて葬られ、よみにくだり」と告白します。この告白を通して、私たちは主イエスの十字架上の死をどのように理解し、陰府に降られた主イエスをどのように賛美したら良いのでしょうか。あるいは、主イエスの死と私たちの死はどのような関係があるのでしょうか。主イエスが陰府に降られたということは、復活の希望を与えられている者として、どのように理解したら良いのでしょうか。
教会員のご家族から、洗礼を受けていない家族の死について質問を受けました。この方は、未受洗者の死後、地獄に行くと聞いたことがありました。この方は、夫のために結婚後 60 年以上祈り続けました。しかし、その夫は、祈られている事は知っていましたが、妻の祈りも空しく、その夫は洗礼を受けずに死を迎えました。この祈られてお亡くなりになった家族は救われないのでしょうか。別の話です。ある友人である牧師の経験です。大変熱心な求道中の青年の指導をしていました。個人的にですが神を信じ罪の告白をして洗礼準備をしていましたが洗礼式の前に交通事故で亡くなったというのです。この牧師は神さまの御許に送ることが出来ないとはどうしても思えないと話していました。
日本において、いや世界において、生まれ育った環境によって、一度もキリスト者に出会ったこともなく、聖書を読んだこともなく、礼拝に誘われたこともないまま、死を迎える人は少なくないと思います。このような方々の救いはどのように理解したらよいのでしょうか。
復活の主イエスは、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、 わたしの証人となる。」と語り、天にあげられました。(使徒 1:8)マタイによる福音書の最後の言葉は、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
私たちの伝道には、限界があります。主イエスの福音を届けられない場合もあります。届けていても様々な制約があって洗礼を受けないまま死を迎えることがあります。そのような方々には、死後の救いの可能性は全くないのだろうか。最も大切な福音伝道を託された教会、すなわち私たちの限界を支えてくれる神の伝道は死後の人間に対してどのような取り扱いがあるのだろうか。伝道牧会の日々、病床洗礼の準備をしてベットまでたどり着きましたが、既にこの方は息を引き取っていました。キリスト教において死者への洗礼は一般的ではありません。私は、死者への洗礼は行わずに神さまに委ねることにしました。しかし、死をいつどのように判断するか牧師としての悩みは消えたわけではありません。
洗礼を受けずに死を迎えた時、愛する家族と共に召された方を覚えて、神の御手に委ねる祈りを献げてきました。その時、私たちは陰府に降られた主イエスに何を期待してよい のでしょうか。
キリスト者ではない人々の葬儀を願われた時、この「陰府にくだり」と記されている告白に希望を抱き、引き受けてきました。私たちの救い主、主イエス・キリストが陰府にくだったということについて詳しく聖書に記されていませんが一縷の希望をもって、祈り続けているのが現実の伝道牧会です。
主イエスは陰府にくだって最後は救ってくれるのだから、洗礼を受けなくてもすべての死者の救いを最後には完成させてくださると理解してはならないと思います。主イエスが ガリラヤで伝道を開始したことの意味も失うことになるのです。主の伝道命令が響いてい るのが教会です。伝道しなくてもよいということはあり得ないのです。
主イエスは神の国の福音を宣べ伝え、神の国について教え、愛の業を行ってくださいました。主イエスは大勢の人と寝食を共にして歩まれました。主イエスは12人弟子をはじめその他婦人たちをはじめ多くの人々に伝道をしました。主イエスの十字架による死は、主イエスが人間の死において私たちと共にいてくださることを私たちに伝えているのです。主イエスは地上においてだけでなく、死に際してもどこにもいかず共にいてくださるのです。神の御子が人間の死においてこそ共におられたことを明らかにしているのが十字架上の主イエスの死です。主イエスが完全な死を遂げたこと、そして人間の死において共におられることを「死にて葬られ」という言葉で告白しているのです。
使徒信条によって「死にて葬られ、よみにくだり」との告白は主イエスが私たちの死に際して無関係ではなく、私たちの死において救い主であることが告白されているのです。主イエスは、私たちすべての人間が迎える死を私たちと同じように死んでくださったのです。人間が死ぬ死を主イエスは引き受けてくださったのです。
初代教会において、この告白を受け入れられない見解もありました。それは、神の子ともあろうお方が死んだりすることはそもそも不要ではないかという意見や、そもそも神の子が苦しんだり死んだりしないだろうという疑念が繰り返し投げかけられました。
しかし、そのような主イエスの死と葬りに対して、初代教会は主イエス・キリストは「死 にて葬られ、よみにくだり」と告白し賛美し続けました。
しかし、使徒信条以外の古代信条には主イエスが陰府にくだったことは告白されていません。2世紀のローマ信条にも、ニケア信条にも陰府にくだったと記されていません。しかし、使徒信条には、主イエスが完全な死を死なれ、陰府にくだったと記されています。 主イエスが死後の世界、地獄へ行かれ、罪と罰と神の怒りとを最後まで担ってくださったということです。この信仰を告白することは、主イエス・キリストの死において、キリストの復活がはじまっているということを理解しなければならないのではないでしょうか。
主イエス・キリストは完全な死を死なれました。そして、十字架上で死んで墓に葬られた主イエスが、陰府にくだられたということは、死に勝利する復活の力をもって主イエスが陰府において確かに働かれるということなのです。
旧約聖書では、陰府は死の国です。詩編 6 編 6 節「死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず 陰府に入ればだれもあなたに感謝をささげません。」 陰府は死の国であり、神の御名を呼ぶ者も感謝もない所なのです。しかし、主イエスは、死において陰府にまで行かれたのです。ユダヤ人の復活理解は、死んですぐに命に入るということではありませんでした。死んだ者は誰もが、陰のような存在となり、陰府(ヘブライ語でシェオール、ギリシャ語でハデス)という場所に行き着くことになると信じられていました。陰府は、地の底、下界、死者の国と理解されていました。また、陰府は地獄と理解しても間違いではありません。ルカによる福音書 12:5「だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。」ユダヤ人の復活理解は、陰府にくだり、死を越え出る新しい命への確信です。ユダヤ教の「十八祈祷文」には、明確な復活信仰がこのように述べられています。
「あなたは全能であり、おごれる者を卑しめなさる。力強く、そして暴れる者たちをお裁きになる。とこしえに生き、死せる者たちを起こしなさる。風を吹かせ、露を置かれる。生ける者たちを養い、死せる者たちを生かされる。あなたは瞬く間に私たちの救いを生じさせる。あなたはほむべきかな、主、死せる者たちを生かす方よ」
主イエス御自身が陰府へくだられたのです。それが「陰府にくだり」という信仰告白の言葉として私たちに与えられているのです。主イエスが陰府にくだり、神によって死と悪の力への完全な勝利が起こったと信じてよいのです。神は主イエスを死者の中から復活させ、天にまで高く上げ、全世界を統治する神の玉座を与えたのです。神である主イエスが陰府にくだって、死に対して神の勝利が告げられているのです。 コリントの信徒への手紙一15章20から22節 「しかし、実際、キリストは死者の中から 復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。21 死が一人の人によって来たのだか ら、死者の復活も一人の人によって来るのです。22 つまり、アダムによってすべての人が 死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」
主イエスは眠りについた者のところ、すなわち陰府にくだり、陰府において、初穂となられたのです。主イエスが陰府にくだられたということは、完全な死を遂げたと同時に復活の力を発揮する出来事にとなったのです。
ペトロの手紙一 3 章 19~20 節 「19 そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。20 この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。21 この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。」
捕らわれていた霊たちのところとは、陰府ではないでしょうか。主イエスが陰府に降られたということは、陰府の力に勝利したのです。その勝利こそ、復活のキリストなのです。
主イエスは、マタイ 16:18「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」 教会は陰府の力も対抗できない神の力を与えられているのです。
マタイ 10:28 「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」
主イエスは死によって陰府に降り、陰府の力も対抗できない復活の力によって、教会を建てられました。そして、私たちが畏れるべき方は、陰府において力を発揮出来るお方であると伝えられているのです。神への畏れをもって主イエスが陰府にくだられたことを心に刻み、使徒信条を感謝と賛美をもって告白し続けたいと願います。私たちは、伝道された主イエスに従い、信仰告白をもって精一杯福音伝道を続けます。復活の主イエスが死後の世界を御支配くださることを信頼して、死後の救いについては神の御業に委ね、福音を宣べ伝え続けたいと願います。