苦しみを受け、十字架につけられた主
説教集
更新日:2023年07月15日
2023年7月16日(日)聖霊降臨後第7主日 銀座教会 主日礼拝(家庭礼拝) 伝道師 山森 風花
ヘブライ人への手紙2章14〜18節
(14)ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えら れました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、(15)死の恐 怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。(16)確かに、イエス は天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。(17)それで、イエスは、神の御 前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たち と同じようにならねばならなかったのです。(18)事実、御自身、試練を受けて苦しまれたから こそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
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(c)日本聖書協会
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私たち教会は、父なる神、子なる神、聖霊なる神という三位一体の神様を信じ、また、使徒信条を通して、この三位一体の神様に対して、信仰を告白しています。ですが、この使徒信条を原語のラテン語で見てみますと、実は約 60 パーセント以上の言葉がイエス・キリストについて告白しています。この文字数からも明らかなように、使徒信条は子なる神、イエス・キリストについて、最も重きがおかれている信仰告白であるということができるでしょう。
しかし、これほどまでに子なる神、イエス・キリストに重きが置かれた信仰告白であるにも変わらず、使徒信条は「主は聖霊によりて乙女マリアより生まれ」と告白した後に、すぐに「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け十字架につけられ…」と告白しているのです。つまり、イエス様がその地上でのご生涯においてなされた伝道活動、また、多くの驚くべき奇跡などについて使徒信条には、一切記されていないのです。
このように使徒信条を見てみますと、確かに使徒信条はイエス様のご降誕、あのクリスマスの出来事から、受難日、つまり、十字架へとすぐに飛躍しているかのように一見見えてしまいます。ですから、中には「使徒信条は、まるでイエス様のその他のご生涯については脇に置いてしまっているのではないか」と、そのように思う人もいるかもしれません。しかし、決してそうではないのです。なぜなら、本日私たちに与えられている使徒信条の言葉、「ポンテオ・ ピラトのもとで苦しみを受け十字架につけられ」というこの言葉には、イエス様のご降誕と十 字架の死だけではなく、その他のイエス様の地上でのご生涯についても、使徒信条が決してないがしろにしていない、その決定的な言葉が記されているからです。
では、その決定的な言葉とはいったい何かと言いますと、それは「苦しみを受け」という言葉です。つまり、この「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け十字架につけられ」という言葉は、何もイエス様の十字架そのものだけに触れているのではなく、むしろ、まず何よりも先に「苦しみを受け」という言葉を記しているということです。
このように使徒信条が、子なる神イエス・キリストの十字架の死だけではなく、「このお方は苦しみをもお受けになった」と告白するとき、それはイエス・キリストが地上でのご生涯全体を通して、苦しみを受けられたお方であった、ということをも使徒信条が告白していると私たちは受け取ることができる、いや、そう受け取るべきだと私は思うのです。そして、また使徒信条を通して私たち教会が、「私たちの救い主、イエス・キリストはそのご生涯全体を通して、苦しみを受けられたのだ」と告白するとき、私たちは今一度、何故、イエス・キリスト、子なる神が、あのクリスマスの日に乙女マリアからお生まれになったのか、いや、お生まれにならねばならなかったのか、ということについて思い起こさねばならないでしょう。
言うまでもないことですが、イエス・キリストは、異教の神話物語に出てくる神々のように、何か気まぐれや暇つぶしで人間の姿に化けて、私たちの世界へとやってきたのではありません。「聖霊によりて宿り、乙女マリアより生まれ」という言葉からも明らかにされているように、まことに神でありながら、私たち人間と変わらない、血と肉を持って、まことの人として、イエス様は私たちの世界へとやってきてくださったのです。それは本日与えられている聖書箇所ヘブライ人への手紙 2 章 14 節にも「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。」と記されているとおりです。しかし、気まぐれや暇つぶしでないのだとすれば、何故、まことの神であられるこのお方が、同時にまことの人として生まれ、私たちと同じように血と肉を備えなければならなかったのでしょうか。
それはヘブライ人への手紙 2 章 14 節後半から 15 節、17 節にこのように記されています。
(14)それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、(15)死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。 (17)それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。
これはまことに驚くべき言葉です。なぜなら、イエス・キリスト、まことの神であられるこのお方がクリスマスの日、乙女マリアより生まれ、まことの人となられたのは、イエス様が血と肉とをご自身に備え、そして、この血と肉を備えたご自身の死によって、死を司る者を、つまり悪魔を滅ぼすためだったということがここで明らかにされているからです。
わざわざ書き記すことでもないことですが、私たちは、血と肉を備えた者、つまり、私たち 人間がすべからく死ななければならない存在であるということを知っています。それは教会の外の人々であっても、全世界の人々が共通に知っていることでしょう。私たち人間は誰一人例外なく死ななければなりません。いったい誰が、この死から逃れることなどできましょうか。 どれだけあがいたとしても、死から逃れるということは私たちには決してできません。しかし、生まれながらに死に向かって歩むほかないこの私たちを救うために、子なる神イエス・キリストは私たち人間と同じ血と肉とを備えたと聖書はいうのです。なぜなら、私たち死ぬべき者たちを罪から解放し、死を司る悪魔に勝利し、奴隷状態になっているこの私たちを解放するためには、神ご自身がまさにその死を経験されて、この戦いの先頭に立って戦わなければならなかったからです。
ですが、死とは全く関わりのないまことの神であられお方が死ぬためには、私たちと同じように血と肉を備えなければ、つまり、あのクリスマスの受肉の出来事が成し遂げられねばなりませんでした。まことに聖なるお方が、罪や死と全く関係のないそのままのお姿のままで死ぬことなど決してありえないことだからです。ですが、死や罪と全く関わりのないまことの神ま がまことの人となってくださったのです。そしてご自身の死ぬべき血と肉とをその身に備えることで、この悪魔によって生まれてから死ぬまでの生涯すべて奴隷として生きるほかないこの 私たちを解放してくださったと聖書は証しし、使徒信条は信じ告白しているのです。
ですから、イエス・キリストがクリスマスの日、乙女マリアより生まれたのは、私たちの救い主、イエス様が死ぬためだったのです。
しかし、私たちはここで注意しなければならないことがあります。絶対に誤解ししてはならないことがあります。それは、イエス様が死ぬために血と肉を備えてこの世にお生まれになったのは、ただ私たちのように平凡に日常生活を送り、私たちと同じように、病気や事故、または寿命によって死ぬばよいということではないということです。私たちの主、救い主、イエス・キリストはただ血と肉を備えて死ねばどんな生涯を過ごしても、また、どんな死に方でもよかったというわけではないのです。それは使徒信条が、はっきりと「ポンテオ・ピラトのもと で苦しみを受け十字架につけられ」と言っている通りです。
すでに先ほど「苦しみを受け」というこの言葉は、十字架そのものだけではなく、イエス様のご生涯全体、すべてについても触れているということを言いました。私たちは聖書を開けばすぐにイエス様のご生涯が苦しみを受けられた、そのようなご生涯であったということを知ることができるでしょう。なぜなら、それは何よりもこの世界が、つまり、私たちが、私たちを救うために血と肉を備えるまでにへりくだってくださった子なる神を、イエス・キリストを受け入れなかったからです。それはまず最初に、イエス様のご生涯の始まり、あのご降誕の出来事からもすでに始まっています。聖書に記されているように、乙女マリアは出産という身体的にも精神的にも大変な時に、宿に泊まって出産する事もできませんでした。そして、飼い葉桶という本来であれば生まれた赤ちゃんを寝かせるには全く相応しくない場所に、私たちの救い 主、まことの神であられるイエス様はそこで寝かせられたのです。このイエス様の姿を見つめるとき、また私たちは、イエス様が「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には 枕する所もない」というあのお言葉をも思い起こすこともできると思います。
そして、さらに私たちは世界が、つまり、私たちがイエス様を受け入れなかった、理解しなかったという出来事を、イエス様がエルサレムに入城された出来事から見ることができるでしょう。イエス様が救い主、メシアとして受け入れられたと思わされたあの民衆たちの歓呼の声、「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところ にホサナ」と叫んでいたあの声が、「十字架につけよ」と叫ぶ声にと変わった、あの出来事を、私たちは聖書から目撃することが、いや、目撃させられている、目を背けることができない事実 として突きつけられているのです。
そして、私がイエス様のご生涯の苦しみを考えるとき、もっとも心苦しめられるのは、イエス様は孤独で伝道活動されたのではなく、ペトロなどの弟子たちが共にいたということです。 イエス様は世界のすべての者から排除され、孤独で伝道されたのではないということは、「苦しみを受け」という言葉を和らげてくれるかのように思うかも知れません。しかし、私はそうは思えないのです。むしろ、愛すべき弟子たちがいつも共にいたことが、イエス様の受けられた苦しみをより深いものにしただろうと私は思うからです。なぜなら、イエス様を決定的に裏切り、引き渡したのは他でもない弟子のユダであり、また「たとえご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」といったあのペトロが、そして、他 のすべての弟子たちも、イエス様を見捨てて逃げてしまったからです。愛すべき者に見捨てられ、裏切られるほどに、苦しいことがあるでしょうか。
このような徹底的な苦しみを受けられた後に、私たちはもう一度、今日与えられている使徒信条の「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け十字架につけられ」という言葉を思い出したいのです。そして、まさにここから、本来のポンテオ・ピラトのもとでの苦しみが始まっていくのです。ですから私たちが「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け十字架につけられ」と告白するとき、そのときには、まことの神であるにも関わらず、まことの人となられた私たちの救い主が、イエス・キリストがそのご生涯すべてを通して、苦しみを受けられたと言うことを、いつも思い起こさなければならないのです。何故、神がこれほどまで、生涯すべてを通して苦しみを受け、罪人に過ぎない、この私たちを罪から救おうとしてくださるのかということを、私たちは真剣に考えなければならないでしょう。
そして、その答えはヨハネの手紙一 4 章 9-10 節にこのように記されています。(9)神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。 ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。(10)わたしたちか神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました、ここに愛があります。
私たちには決して計り知れない神の愛が、イエス・キリスト、私たちの救い主、まことの神であり、まことの人であり、苦しみをうけ、十字架で私たちの罪の贖いのために死なれたあのかたによって示されたのです。だから私たちはこの神の愛が私たちに今も降り注がれていると 言う事実を、罪赦されていることを知っています。ですから、どうかこの喜びの中を感謝をもって、祈り、互いに罪赦され、愛されているものとして、歩んで参りたいと願います。