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銀座の鐘

本物と証明される信仰

説教集

更新日:2023年07月29日

2023年7月30日(日)聖霊降臨後 第9主日 銀座教会 家庭礼拝 牧師 近藤 勝彦

ペトロの手紙一1章6~7節

 あなたの生活に喜びはありますか。そう問われて、即座にありますと答える人もおられるでしょう。しかしなかには、自分の人生の喜びは何かと思いめぐらす方もおられるのではないでしょうか。その上で自分の生活に本当の意味での喜びはないというのであったら、その人は改めて信仰を求め、救いを求めなければならないのではないでしょうか。キリスト者の生活は、前回の御言葉では神の憐みと死者の中からのイエス・キリストの復活によって新たに生まれさせられた生活です。そして生き生きとした希望を与えられ、天に蓄えられている朽ちることのない財産を継承する者とされたと学びました。従って、キリスト者の生活には深い喜びがあるはずです。
 そのことを受けて、今朝の御言葉は「それゆえ」と言います。「そのことを思って」とも訳せます。「それゆえ、あなた方は心から喜んでいる」、それがキリスト者の日々の生活なのだと言われます。
 ここに「心から喜んでいる」と言われていますが、「心から」という言葉が記されているわけではありません。ただ聖書に出てくる喜びという言葉には、二つあって、パウロがフィリピの信徒への手紙などに記した「常によろこびなさい」と言われたときの「喜び」がありますが、それとは違う言葉がここには使われていて、どんな時にもしみじみと続く確かな喜びとは別に、跳び上がりたいような喜び、爆発的な歓喜を示す言葉が使用されています。もちろん、二つの喜びは内容としては別々ではなく、繋がっています。ですから主イエスが山上の説教の中で喜びを語ったとき、この両方の言葉で示されていました。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい」(マタイ5・11 以下)と主は言われました。この「大いに喜びなさい」とここで言われている「心から喜んでいる」は同じ言葉です。信仰の中にはそういう飛び上がりたいような歓喜、大いに喜ぶ喜びがあるというのです。神が御国を下さり、朽ちることのない財産をくださり、回復されたパラダイスの中で主の栄光の体にあずかる救いの完成の中に入れられる。それは大いに喜ぶべき喜びで、心からの喜びです。信仰生活の中にはそういう喜びがあると言うのです。
 もちろん、「今しばらくの間」は、「色々な試練に悩まなければならないかもしれません」とも言われています。そのことも信仰は知っています。「歓喜」と「試練」というと、矛盾のように思われるかもしれません。しかしそれが現実なのです。「歓喜」において「試練」を忘れず、「試練の中でも歓喜」に生きる、ここにペトロの手紙が力を込めて伝えたい信仰生活のメッセージがあるのではないでしょうか。
 そのとき「試練」とは何でしょうか。「困難」とか「苦難」、あるいは「苦痛」や「患難」とどう違うのでしょうか。それはもちろん言葉が別で、「試練」には「試すこと」や「吟味する」などの意味合いがあります。今朝の箇所の文脈で言うと、たとえば金が「火で精錬される」ようなもので、それが「試練」です。どんな苦難や患難も「試練」として受け止められると、単に辛い困難や苦痛ではなく、意味があります。その人を精錬するのに用いられるわけです。
 その「試練」の内容は、ここには具体的に記されてはいません。試練の中身は色々な苦難や患難でしょう。ある人は病気や何か物質的な不足や困窮はここには入れられていなくて、キリスト教信仰ゆえの迫害の苦痛が試練なのだと解釈します。私にはそうは思えません。もちろん、キリスト者ならばこそ受ける苦難もあります。本来の迫害はそうでしょう。キリスト者であることをやめさえすれば、その苦難はなくなります。ここではそういう苦難による試練も意味され、含まれているとは思いますが、それだけではないでしょう。およそ、キリストのものとして選ばれた者たちが、パラダイスの約束に希望を持ちつつ、なお今しばらくの間、どうしても生きなければならない色々な困難があります。ペトロの手紙はまだ故郷にいるのでなく世界に「離散し、「寄留」の生活にいる「選ばれた者たち」に宛てると言われました。キリスト者はみなすでに本国である神の国に属させられながら、離散と寄留の生活にいます。ですからいろいろな試練の中にいなければなりません。皆さんがいまそれぞれに 悩んでいるそのすべての困難がここに言われる「試練」と受け止めてよいのではないでしょうか。金を火で精錬するように、その試練によって信仰は本物と証明されると言われているのです。
 試練の試練たるゆえんは、悩まなければならない困難です。けれどもそれは無意味ではありません。まずそれは「今しばらくの間」のことにすぎないと言われます。試練が永遠に続くことはありません。神はそれを「今しばらくの間」に限定してくださいます。そしてそれには「金を精錬する火」のような意味があります。試練は信仰を本物と証明します。金が火で精錬されるように、信仰は試練によって純度を高めると言うのです。不純物を取り払われます。しかも信仰は、純度の高い金よりもはるかに高価だと言われます。なぜならば、金はどんな純金であったとしても「朽ちるほかない」、しかし試練によって精錬され、純度の高い純粋な信仰は朽ちないというのです。信仰は試練によって純度を高め本物の信仰と証明されると、それは極めて高価で、朽ちることがありません。持久性をもった強靭な信仰を生きることができるというのです。
 皆さんは、信仰がどんな金より高価だということをお考えになったことがあるでしょうか。わたしはこれまでこのことをよく考えてこなかったのではないかと思います。洗礼を受けたのは 16 歳でしたから、63 年の信仰生活を過ごしました。しかしこの年までよく考えてこなかったことが実に多いことに気付かされます。信仰が純金より高価で朽ちないものだと言われ、そういう信仰は試練によって精錬されて分かるものだと言われます。はじめて聞かされる思いで、しっかりと受け止めたいと思います。信仰は「試練」を受けてこその信仰ということでしょう。自分勝手な都合の信仰でなく、純度の高い、本物としての信仰であり得るわけです。
 本物と証明された信仰、純金より高価だと言われる信仰は、どういう信仰でしょうか。その内容が具体的に語られているわけではありません。ある説教者は「まじり気のない信仰」をこう言いました。「それは、具体的に言えば、甘ったれていない、まことに神に対する正しい態度を持った信仰であります。また、どんな困難があっても、祈ることができる信仰であります。あるいは、いつでも、何事もない時にでも、祈ることができるような信仰であります」。こう言われるのは誤りではないと思います。さらに続けて、「また、人から嫌なことを言われても、されても、その人をゆるし、その人のために尽すことのできる信仰であります。あるいは、多くの誘惑の中にあっても、まちがった生活をしない信仰であります。清い心を持つ信仰であります。何よりも、神に従うことを喜びとする信仰であります」。
 しかし今朝の箇所では、純粋な信仰の具体的なことは逐一語られていないのです。ただ、神の憐みと死者の中からのイエス・キリストの復活によって新たに生まれさせられではないかと言われ、生き生きした希望を与えられ、天に蓄えられた朽ちない財産を継承する神の子とされたのだと言われています。そして飛び上がりたいような喜びの中にいる。その信仰の者たちが、今しばしの試練によって精錬されることは避け難い、その試練によって「まじりけのない信仰」「朽ちない信仰」に生かされると言うのです。考えてみると実に楽しみなこととも言えるのではないでしょうか。
 そして信仰は、試練を潜ることによってまじり気のないものとされ、ついには主イエス・キリストが現れるとき「称賛」、「光栄」、「誉れ」になると言わえます。精錬された信仰の素晴らしさがあるのです。その観点から言うなあらば、どんな試練も楽しみではないでしょうか。主イエス・キリストが現れる時というのは、栄光のキリストが現れるときです。主の栄光は、私たちがその栄光にあずかることをゆるし、栄光あるものにしてくださいます。そしてキリストの栄光にあずかる信仰が、称賛、光栄、誉れになるわけです。
 この御言葉を聞きながら、教会のある信仰告白の表現を思い起こしました。ドルト信仰基準に表現された「聖徒の堅忍」という信仰箇条です。キリスト者の信仰は、色々な試練の中で途中どんなに不確かに見えても、かならずや耐え抜くことができるという信仰です。それは私たち自身に耐え抜く力があるからではありません。神が信仰を堅持させてくださるからです。神が真実であって、子としてくださったものを最後の最後のまで保持してくださる。だからキリスト者の信仰は、いましばらくの間の試練の中も堅忍することができる、聖徒の堅忍を生きることができます。
 
 父なる神様、私どもに信仰をお与え下さり、試練をもお与えくださって信仰を精錬し、主イエス・キリストの現れる時には主の栄光にあずからせて、信仰を称賛、光栄、誉れとしてくださいますことを、心より感謝申しあげます。あなたの子とされた喜びの中に信仰の旅路を歩み、あらゆる試練を潜って与えられた信仰を生き続けることができますようにお導きください。またあなたの憐みと主イエス・キリストの復活によって支えられた信仰の大いなる喜びを知り、証し、伝える者とならしめてください。万物の頭にして教会の主であるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。