キリストの昇天
説教集
更新日:2023年08月05日
2023年8月6日(日)聖霊降臨後第10主日 銀座教会 平和聖日 家庭礼拝 牧師 髙橋 潤
ローマの信徒への手紙8章31~34節
31 では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方で あるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。32 わたしたちすべてのために、その御 子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らない はずがありましょうか。33 だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてく ださるのは神なのです。34 だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、 否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたし たちのために執り成してくださるのです。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
聖書をもっと知りたければ・・・
» 一般財団法人日本聖書協会ホームページへ
使徒信条の主イエス・キリストについての一節「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」について、聖書の御言葉から主の御心をお聞きしたいと思います。 私たちは、陰府に下られた主イエスが、「天に昇」られたということをどのように理解したらよいのでしょうか。主イエスは、弟子たちと共に多くの罪人の仲間になってくださり、罪人と食事をしてくださいました。時の宗教的支配者達は、主イエスをねたみ、祈る主イエスを逮捕し十字架刑に処し、殺してしまいました。主イエスの弟子たちもわが身を守るため、十字架の前に主イエスを見捨ててしまいました。にもかかわらず、主イエスは十字架上で、十字架の下にいる弟子たちのために執り成しの祈りをされました。
ルカによる福音書 23 章 34 節「そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しく ださい。自分が何をしているのか知らないのです。」」
十字架上の主イエスは、息を引き取る直前、弟子たちの裏切りを睨むこともなく、宗教的指導者を呪うこともなく、ただただ、天の父なる神に心を向けて、十字架の下にいる人々のために執り成しの祈りをささげてくださいました。
十字架上で息を引き取られ、十字架から下ろされ、墓に葬られた主イエスのご遺体は墓に眠っているのではなく、復活しました。十字架刑の傷を負った復活の主イエスは、40 日間御自身のお姿を現されました。そして、使徒言行録 1 章 9 節に記されているように主イエスは天に昇られました。「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。10 イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、11 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」」
復活の主イエスは人々が見上げている中、天に昇られたのです。白い服を着た人々が、 天に上げられた主イエスは「同じ有様で、またおいでになる」と伝えてくださいました。
弟子たちや残された者は、主イエスが天に昇ったことによって、主イエスと共に生活することが出来なくなりました。復活の主イエスが天に昇ったことをどのように理解したらよいのでしょうか。使徒信条は、「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」という告白によってどのような信仰を与えているのでしょうか。
天に昇った復活の主イエスは、今、どこにおられるのでしょうか。「天」というのは、一般的には宇宙全体や天空を指すことがありますが、主イエスは空にいるのではありません。雲の中にいるのでもありません。キリスト教において「天」は、神が支配する領域、神の住まいを意味します。主の祈りで「天にましますわれらの父よ」という時の天は、物理的な空の上ではなく、神がおられる領域です。天に昇られたということは、遠いところに行ってしまって、再び来られるまでお会いできないということではありません。そうではなく、復活の主イエスが天に昇られたということは、主イエス・キリストが時間と空間の制約を越えて、救い主として臨在しているということです。復活の主イエスが天に昇られたということは、どこか遠いところへ主イエスが消えてしまったのではなく、時間と空間を越えて私たちと共にいるようになったのです。この告白によって私たちは主イエスがいつでもどこでもおられるようになったのだと理解しなければならないのです。
主イエスが天に昇られるまでは、時間と空間の制約があり、主イエスを追いかける人々がいたり、主イエスに会うことが出来ない人々もいたことでしょう。しかし、今や主イエスが天に昇られたゆえに、時間と空間を越えて主イエスとの交わりが与えられていることを信じて生きるのです。主イエスは私たちの目には見えません。しかし、聖霊なる神の助けによって、復活の主がおられることを信じて生きることが出来るのです。この告白によって、私たちが寝ていても、出かけても、時間と空間に制約されることなく、神と共にいる信仰生活の保障が与えられたのです。
「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」とは、この地上に誕生し、苦しみを受け、十字架の死を遂げ、陰府にくだられた主イエスは、全能の父なる神の右に座しておられると告白します。この信仰告白によって私たちは、主イエスが神と一体であることを告白します。復活の主イエスと神とは一つであり、一致していることを信じて告白します。イエス・キリストは主であり、神であるということです。主イエスは、天に昇り、神と一体となって、私たちを御支配くださっているのです。
フィリピの信徒への手紙 2 章 6 節以下、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名に まさる名をお与えになりました。10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」
主イエス・キリストの昇天は、神が私たちに主イエスを救い主であると告白する信仰を与えています。神の右におられる主イエスは、安心して私たちが救い主を信じる信仰の土台を築いています。この信仰は、今や主イエスが時間と空間を越えて働かれる神として、私たちと共にいる確信を与えているのです。この信仰を与えられた私たちは、世界に向かって伝道するために派遣されます。11 節の通り、すべての舌が公に信仰を告白して、父なる神を礼拝する者になるのです。
使徒言行録 1 章「8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」 1:9 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」
天に上げられる直前、主イエスはこのように語られました。聖霊が降り、信仰を与えられた一人一人は「力を受ける」そして、地の果てに至るまで「わたしの証人」となると宣言してくださいました。
ハイデルベルク信仰問答では、「キリストの昇天は、私たちにどのような益をもたらしますか」と問います。そして、答によって三つのことが記されています。
第一に、天においてキリストがわたしたちの弁護者となってくださると記されています。 昇天したキリストが私たちの弁護者であるということは、キリストが私たちから遠く離れ てしまったのではなく、逆に近くにいてわたしたちのことを誰よりも理解し、更に弁護してくださるということです。こんなにありがたいこと、安心なことがあるでしょうか。信仰生活とは、キリストが弁護者であるということなのです。神と一体となっている復活の主イエス・キリストがわたしたちを弁護してくれるのです。最後の審判において、時間と空間を越えて働かれるキリストがわたしたちの弁護者として立ってくださるのです。
第二の答は、キリストがその肉体をもって天に上げられたことによって、私たちの体の復活を保証してくださるということです。キリストの昇天はキリストがわたしたちを天に引き上げてくださる確かな保証となっていると記されています。
第三に、復活の保証のしるしとして、神の霊をわたしたちに送って下さると記されています。私たちは神の霊によって、地上のことに煩い続けるのではなく、神の右に座しておられるキリストを仰ぎ、天上のことを求めるようになると記されています。
ハイデルベルグ信仰問答によって、キリストの昇天は、見物して終わる出来事ではなく、キリストが私たちの弁護者となって立ち、復活の保証を与え、救いの確かさを与えて天を仰ぐ者に変えてくださると教えられているのです。
ローマの信徒への手紙8章31節以下は、愛の凱歌(がいか)と呼ばれる、使徒パウロによる御言葉です。凱歌というのは、戦いに勝利した人々が勝利の凱旋の時に喜びをもって歌う歌です。パウロはどんなに苦しい伝道の戦いにあっても、十字架の死と復活の勝利の信仰に立ち、主イエスによる愛の絆で結ばれているのだから、勝利者なのだと宣言しています。世間からは敗北者にしか見られなくても、実は神の愛に結ばれている勝利者なのだと神の愛の勝利を歌うのです。主イエス・キリストを救い主と信じる者はどんな苦難の状況のなかにあっても、勝ち得てあまりある者であると歌っています。この喜びの歌を歌える根拠は、神の愛なのです。神が私たちを愛してくださるのは、神から見て私たちに取 り柄があったからではありません。私たちが神に近づけることが出来たからでもないのです。神の愛をニーグレンは、価値創造的な愛と語りました。神は何の取り柄もない私たちの中に神の創造のみ業として、価値を創造して、私たちを価値ある者にしてくれるということです。ローマの信徒への手紙8章37節以下「わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。38 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、39 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
私たちの弱さ、みじめさが神の愛から離れる原因だと考えてはなりません。この地上の何ものによっても神の愛から私たちを引き離すことは出来ないのです。愛の神が、私たちを捕らえて離さないからです。そして、私たちの弁護者として執り成してくださるのです。