全ての者の裁き主
説教集
更新日:2023年08月12日
2023年8月13日(日)聖霊降臨後第11主日 銀座教会 主日礼拝(家庭礼拝) 副牧師 川村満
フィリピの信徒への手紙3章17~21節
3:17 兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを 模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。 18 何度も言ってきたし、今また涙ながらに言います が、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。 19 彼らの行き着くところは滅びで す。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。 20 しかし、わた したちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたち は待っています。 21 キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑し い体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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今日は、「かしこより来たりて、生けるものと死ねる者とを裁きたまわん」という告白に集中していきたと思います。
田舎の町を歩いていると、ときどき、こういう看板を見かけたことがあると思います。「死後裁きにあう。聖書」あるいは、「地獄の火から逃れよ 聖書」とか。そのような怖いメッセージをどんと掲げて伝道する団体があるのですが、果たして、それが本当に聖書が一番に伝えたいメッセージなのかなあと疑問に思うことがあります。しかし、ではそんなことは聖書のどこにも書いていないと言って反論することもできないのです。確かに、聖書には、私たち人間は死んでから皆、神様の御前に立たなければならない。そのような審判の日が来るのだということ。それは確かな事実でありますし、新約聖書のヨハネの黙示録という、世界の終わりの幻を見たヨハネが、そのイメージを描いた書物の中では、最後の裁きの中で、永遠の命に至る者と、永遠の滅びに至る者に分かれるのだと、確かに記されております。(黙示録20章11-14)しかし、私が常々思いますことは、神様の恐ろしい裁きとか、滅びとかを出して、こんな恐ろしい目に遭いたくないならば早く悔い改めて信じなさい、というのは、本当の喜びの知らせとは言えないのではないだろうか、ということであります。聖書を読んでいき、御言葉を信じていくようになると、だんだんわかってきます。わたしたちが神様の御前で罪人であったということ。今も罪人であるということ。その罪は、本当に 恐ろしいものであり、そのままでは確かに滅びに堕ちるほどにひどいものであったということです。しかしその罪を、主イエス・キリストが十字架において取り除いてくださった。それが、喜びとしてわかってくることと、自分が罪深い存在であるのだという自覚は、いわば同時並行で。一緒に成長していくのではないだろうか、と思います。永遠の命の喜びだけがあって罪の自覚がないというのは、どこかで十字架の主イエスとまだ本当に出会っていないということでありますし、罪の自覚や怖れだけがあって、永遠の命の喜びもない、ということもまたおかしなことであります。罪の自覚はどこで芽生えるのかということを考えますと、案外と、信仰をもっていなくても、やっていいこと、悪いことの感覚というものは、子供のころから教えられたことのなかで身についているでしょう。人の物を盗んではならないとか、不倫してはならない、などというのは、信仰がない人でも誰でもわかっていることです。しかしそれが、神様の御前に罪なのだ、ということは、御言葉を聞き、礼拝をささげ、その中で神様と出会って、聖霊を与えられていかなければ本当にわからないことなのではないだろうかと思います。信仰が与えられて初めて、わたしたちは死後、本当に皆、神様の御前に立って、裁きを受けなければならないということ。それを、ある種のおそれをもって受け止めていくのであります。ある種のおそれと言いましたが、おそれには二つあると言えます。一つには、恐ろしい、と言う言葉を使う時の恐怖のおそれです。しかし神様をおそれるということ。それは畏敬の念と書く。偉大なるものを畏れ敬う心であります。神様を畏れるというときには、悪魔とか、幽霊とか、何か悪いものを恐れるというのとは違い、わたしたちを不安に陥れたりすることはない。しかしわたしたちをはっとさせ、襟を正す心を与えてくれます。神様が与えてくださる大いなる、素晴らしい世界。神様が与えてくださった偉大なる御子。イエス・キリスト。その素晴らしさ。尊さに気付かされていくとき、こうしちゃいられない。こんないい加減な生き方ではだめだ。もっと神様の恵みにふさわしい歩みをしなければ、と思うのです。それが本当の神様への畏れであります。そこには、ただ、神様に罰を与えられるのが嫌だから、地獄に行くのが嫌だか ら、罪を犯すのをやめよう、というのではなく、わたしのような者を愛して、わたしのために死んでくださった、苦しんでくださったイエス様に申し訳ない。永遠の命を与えてくださったのは本当にありがたい。その有難さの中で、神様に仕えたい、という心であります。
2,かしこより来たりて
ここでは、かしこより来たりて、とあります。かしことはどこなのか。手紙の末尾に書く、あの「かしこ」を思い出す方もおられるかもしれませんが、あのかしこと語源が同じなのか違うのか私はよく知りませんけれども、彼と処、と書いて彼処と読みます。遠く離れたところ、という意味であります。仏教でいう、彼岸というのと同じような意味にとってもよいのです。あの世であります。よりくわしくいうと、天であります。今主イエスが神の右に座しておられる、そのところから、この地上に、再び来てくださるときがくる。それがいつなのかわかりませんけれども、その時、全ての人間が、そのとき生きている人間も、死んでしまった人間も、よみがえって、主イエスの御前に立たなければならない。生前の歩みを裁かれるためであります。そこには、歴史に偉大な名を遺した人々もいれば、独裁者や王であった人々もおりましょうし、名もない人々。虐げられて死んだ人々もいるのでしょう。小さき人々も大きな人々も、皆、神様の御前に平等に裁かれる。それがどういう形で、どのように裁かれるのかはわかりません。想像するほかありません。しかし全能の主は、決して誰もお忘れになることなく、見逃すことなく、裁かれるのだということは確かであります。 しかし、パウロは、この裁かれるということを、恐れてはいません。いえ、もっと正しくいうならば、先ほど申しましたような、不安をもって恐れているのではありません。怖がっていないのです。むしろ、喜びをもって待ち望んでいると言えましょう。しかし同時に、パウロは本当に正しい意味において、誰よりも神を畏れているのです。神の御前に、襟を正し、誰よりも正しくありたい。神様に喜ばれる者でありたいと願っているのです。パウロが見据えているところは、死んでからの裁きの日であり、その時、神が喜んでくださる顔を心から待ち望んでいるのです。
3、過去、現在、将来において来たる主イエス・キリスト
ある神学者が、この、使徒信条の優れた注解の中で、この、かしこよりのあとの「来たりて」という言葉に注目しております。イエス・キリストはわたしたちの過去と現在と、そして将来において来たるというのです。まず、イエス・キリストは、わたしたちの過去である。それはどういう意味かというと、主イエスの、全き、神への服従であった地上の生と死を、わたしたちの罪深い過去に送ってくださったということ。それによって、あたかも私たちが、主イエスの完全な歩みを生きたように見なされ、そしてわたしたちの過去の罪の一切があの十字架において釘づけにされたのだということであります。そしてキリストはわたしたちの現在でもある。つまり天にあげられたキリストのうちに、わたしたちの真の命が隠されているからである。そして、キリストはわたしたちの将来である。すなわち、キリストにあって、将来、来るべき栄光のうちに私たちの希望が実現するからである、と。栄光の将来が、わたしたちに約束され、備えられている。それが、わたしたちの希望なのであると。このように、わたしたちの過去、現在、将来に来てくださっている主イエス・キリストであります。つまり、わたしたちの人生の全ても、死後の新しい命も、主イエスの内にある。それほどにわたしたちは主イエスと一つとなってしまった。完全に密着してしまったのだということではないでしょうか。このようなイエス・キリストの命の中にわたしたちはすでに地上において、生かされているのであります。ヨハネによる福音書の16章33節にこのような主イエスの御言葉があります。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」この、勇気を出せ、という主の命令の御言葉と、心強い、という御言葉は同じ言葉なのであります。パウロほど、地上において主イエスのために苦しんだ人はいませんでした。迫害されたり、鞭を撃たれたり、死ぬような目に遭ったり、また病気に苦しむこともありました。そのたびにパウロは死ぬことを意識していたと思いますし、体の限界に直面していたのだと思います。いかに自分の体が脆いか。限界、破れがあるかということを、病気や、心の弱さの中で知っていた。コリントの信徒への手紙二の5章1節で、「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていること」と語っております。これは、自分の地上で生きるこの肉体を、幕屋。すなわち仮住まいのテントに見立てて語っているのです。幕屋とかテントなどは、すぐに折りたたんでしまうことのできるものであり、それは遊牧民が、すぐに違う場所に向かうた めに使った簡易型の住まいです。それと同じように、わたしたちの地上の体も、いくら健康に生きてもせいぜい100年で、病気などで死んでしまう。朽ちてしまう。期間限定の命の住まいです。病気をしたり、ストレスを感じたりしていつもそこに限界を感じております。しかしまさにそのような地上での歩みの中で、わたしたちはキリストの命に飲み込まれる日が来ることを希望しておるのです。私たちにとって、世の終わり。主イエスがわたしたちを裁くために、よみがえらせてくださる日というのは、喜びの日。希望の日であり、安心して主イエスの御前に立つことができる日であります。なぜならわたしたちは主イエスの十字架と復活の命を今、ここにおいて与えられているからです。わたしたちの裁きは、あの十字架においてすでに主イエスが受けてくださったからであります。わたしたちは奴隷として、主人の御前に立つのではない。そうではなく、神の子として主イエスの御前に立ち、そして天の父の御下に赴くのであります。
ですから、わたしたちの人生の終わりとは、死ではないのです。どうしても死を終着点として考えてしまいがちですが、そうではなく死んだあと、よみがえり、主イエス・キリストの裁きの座の前に立つとき。これを、わたしたちもまた、人生の最終目標にしていきたいのです。「わたしは既に世に勝っている。」この主イエスの勝利がわたしたちに与えられる日。それが、審判の日なのであります。わたしたちは審判の日に、主イエスの勝利、神の栄冠に与るのです。救われた神の子であるならば、必ずそれが与えられるのです。
わたしたちの救われた命は、この勝利の日に向かっている。このことを心から感謝しつつ、わたしたちもまた、ひたすら主に喜ばれる者となっていきたいのです。そして、主イエスの勝利に与り、主イエスのお褒めに与る日として、心からその日を待ち望む者として、今わたしたちはこの教会の礼拝に集います。一人でも多くの方が、この主イエスがつくってくださった新しい命の交わりに招き入れられ、信仰において、素晴らしき将来を待ち望む者とされていきますように。主イエスが、今、ここに来てくださっている。そして私の命に与りなさい、わたしの招きに応えなさいという、この声に聞き従う者となって来たいと思います。お祈りをいたします。
教会の頭であられる主イエス・キリストの父なる御神。わたしたちが、既にキリストの命に与り、わたしたちの全ての罪が、十字架において赦され、裁きから免れたものとして、裁きの座に立つことが許されていることを感謝いたします。何も恐れることはない。ただ、あなたに喜ばれる者として立ち続けることができますことを感謝いたします。あなたの愛に応え、栄光をあらわす者とさせてください。命の道を歩み通させてください。過去、現在、将来において、常に私たちがあなたのものであり、あなたの恵みの内に生かされていることを、喜びをもって受け止めさせてください。 わたしたちに、主の再臨を待ち望む信仰を豊かに与えてください。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン