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銀座の鐘

キリストを見たことはないが愛している

説教集

更新日:2023年08月25日

2023年8月20日(日)聖霊降臨後第12 主日 銀座教会 家庭礼拝 牧師 近藤 勝彦

ペトロの手紙一1章8 ~9節

 よく申し上げることですが、キリスト教信仰にとって重大な問題は「主イエス・キリストがいまどこにおられるか」ということです。使徒信条で主イエスは「神の右に座し給えり」と言われ、「かしこより来たりて、生けるものと死ねるものとを裁きたまわん」と言われます。ですから、いまどこに主はおられるかと言えば、「神 の右」という答えになるでしょう。しかし神の右におられることは、聖書によりますと、神がキリストを「すべて の支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれた」(エフェン1・21) ことです。聖書はさらに「神はすべての ものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの頭として数会にお与えにな りました」(同22)とも言います。従 って神の右に座すキリストは、やがて栄光のうちに 現われるキリストですが、いますでに目に見えない仕方で教会に現在し、主を信じる者た ちと共におられるとも言わなければならないでしょう。活けるキリストは今、私たちとと もに現在しておられる方です。教会とキリスト者はそう信じてきましたし、今も信じてい ます。キリスト教信仰のこの重大な信仰を、今朝の御音葉もまた伝えているのではないで
しょうか。
 この箇所はペトロの手紙の中でもよく知られ、親しまれている箇所です。直前には「イエス・キリストが現れるとき」のことが語られ、そのとき信仰が 「称賛と光栄と巻れをも たらす」と言われていますが、そのキリストが現れる時を待ちながらも、「あなたがたは、 キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており」と言われます。見ずして 信ずですが、まるで見えるかのように信ずで、それによって今すでに「言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれ てい ます」と言われます。「キリストを見たことがない」と言うのは、この手紙を受け取ったキリスト者がみな、使徒たちのように地上のイエスと歩みを共にして、イ エスを直接見た人たちでないことを意味しています。ですから彼らは使徒たちの証言によって主イエスを知らされた後の世代 の人たちです。そして「今見なくても」と重ねて言われます。これは彼らと共に現在して おられる活けるキリストが目で見ることができないことを言 っています。しかし彼れらは 主イエスを愛していますし、信じています。そしてすばらしい喜びに満たされています。 教会とキリスト者はそういう愛と信仰をキリストに対して抱いているわけです。「目で見ること」はここではそれほど大事なこととはされていません。「大切なものは目に見えな い」という言葉は、サン ・テグジュペリの『星の王子様』に出てくる名台詞で、キツネが王子様にそう言って、本当に大切なのは目に見えない愛の絆の強さなのだと教えます。キリスト教信仰に育まれた精神の中で語られていると言うべきでしょう。ペトロの手紙もキリストを見たことがないけれども愛し、見ていないけれども信じている、それが現に生きて共にいてくださるキリストとの確かな絆であり、信仰生活の支えです。
 ペトロは地上のイエスと目に見える交わりにいたときには、かえって本当には主 イエスを見ていませんでした。愛と信仰をもって主イエスを見ていたと言えないのを知っていました。活ける主が共にいてくださると分かったのは、むしろ、愛によって、そして信仰によって主を知ったときだったでしょう 。目には見えないけれども、あたかも目に見るかのように共におられる主イエス・キリストを仰いで、主の愛を受けていることを知り、主を愛する。生ける主イエスに愛され、まことに不十分な自分を放され、さらには主によって祈られていることを知って、主を信じる信仰に立 ち返ったのです。そして「言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ち流れた」。それがペトロの信仰だったでしょう。
 主キリストによる喜びは、「言葉では言い尽くせない喜び 」で、それはまた「すばらしい喜び」とも言われます。「すばらしい喜び」という言葉には「栄光」という言葉が含まれていて、イエス・キリストが現れるときには光栄がもたらされるとある、その栄光にあずかっている喜びです。
 「素晴らしい栄光ある喜び」はキリストが目に見える仕方で現れる終りの時の喜び であって、それは言薬団では言い尽くせないでしょう。しかしその喜びに今すでにあずかっていると言われます。 主キリストを愛し、信じていることは、そういう終わりのときの言い尽くし難い喜びにすでにあずかっているというわけです。
 自分自身の信仰の生活を振り返ってみて、素直にそうだと思えれば、そんなすばらしいことはほかにありません。しかしそう思えない場合であっても、キリストを愛し 、キリストを信じている信仰、そしてやがて現れるキリストが、日には見えないけれどもいますでに現在しておられ、活ける主が共にいてくださる、その主を信じ、愛している。ここにはすでに言い尽くし得ない喜びがあるのではないでしょうか 。
 主イエス・キリストがまことの羊飼いであり、羊のために命をすてると言われれるとき、あるいは失われた半のために99匹を置いて、迷子の一匹を探し、見つけ出すまで探してくださるとき、私たち自身がその見つけ出された羊ではないでしょうか。主イエスを愛し、主を信じるのは、主によって見つけ出され、その愛と守りの中に入れられているからです。主によって見い出されたことに喜びがあるのではないでしょうか。
 終りの時の栄光ある素晴らしい喜びの全てを今経験していると言うことはできないでしょう。しかし私たちはすでにそれにあずかっています。私たちもキリストを見たことがあ りません。しかし愛しています。私たちの目に、主は今は見えません。しかし主イエスを信じています。そして終りの時の栄光ある喜びの 一端にあずかっています。
 どうしてそう言えるのか。その理由も今朝の御言葉の中に説明されています。それは「あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けてるから」と言うのです。信仰の 「実り」と は、信仰が結果として実を結ぶ、その信仰の結果ですが、それはまた信仰の 「目標」とも 訳すことができます。信仰の目標は 「魂の救い」だと言われます。この「魂」という表現は、聖書の中ではイスラエル的な用法で理解されるべきと言われます。そうすると、それは肉体と区別された人間の一部分としての霊魂や精神を意味しているのではありません。そうでなくて、魂は人間そのものです。その人間の生全体、全体としての生、生活全体です。このイスラエル的な言葉の用法で言いますと、「魂の救い」はその人の全部の救いで、他者との関係も含んだその人の生金体が救われることを意味します。それが信仰の目標だ と言うのです。この救いは信仰の目標ですから、終りの時、キリストが目に見える仕方で現れる時の救いでしょう。信仰の希望の事柄と言ってよいと思います。ですが、その救い にすでに今あずかっていると言われます。それであなたの信仰生活には喜びがあると言われているわけです。
 なぜそういう救いと喜びがあるのでしょうか。終りの時の全体的な救いを今、すでに受けていると、なぜ言えるのでしょうか。それは、終りのとき日に見える仕方で現れる主イエス・キリストが今、すでに、見えない仕方で、活きて私たちと共に現在しておられるからです。やがて目に見える仕方で現れるキリストがいますでに共におられる。目に見なくても、「閉じる日にあおがしめられ」、見えるがごとく愛し、信じます。活けるキリストが私たちと共に現在してくださっているからです。
  エマオ途上の弟子たちの経験もそうでした。日に見る仕方では彼らに分かりませんでした。しかしなおその先に行かれるキリストに「主よ、共に宿りませ」と願った とき、そして共におられる主に遊われたとき、共に現在しておられるイエス・キリストに目が開かれ る経験をしました。活けるキリストが共に現在してくださる信仰経験は、私たちの経験でもあります。讃美歌39番は、生けるキリストの現在を閉じる目で仰ぎながら、「主よ、ともに宿りませ」と祈ります。見えないけれども主を愛し、主を信じているからです。

 天の父よ、「見たことがないのに愛し、今見なくても信じており」との御言葉を感謝します。私たちにも同じ愛と信仰を与えてくださり、目には見えなくとも主イエス・キリストを愛し、信じて、素晴らしい喜びにあずからせてくださいますことを、心から感謝します。見えない主を愛と信仰によって見るかのごとくあおぐことができますよう、また、信仰の実りとしての魂の救いを受けて、あなたの御栄光を識美し、証しすることができますように、導いてください。共にいたもう活ける主イエス・キリストの御名によって祈りま す。アーメン。