銀座教会
GINZA CHURCH

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銀座の鐘

感謝と希望

説教集

更新日:2023年09月03日

2023年9月3日(日)聖霊降臨後第14主日 銀座教会 振起日・十歳児祝福式 家庭礼拝 牧師 髙橋 潤

ヨハネによる福音書3章16節

 本日の主題は、使徒信条の最後の言葉です。私たちは6月18日より本日まで12週間 に亘って、使徒信条の講解説教を続けてきました。本日は「罪の赦し、からだのよみがへり、永遠の命を信ず。」と告白する最後の言葉に注目したいと思います。
  世界の教会にとって基本となる信条が使徒信条です。使徒信条によって、私たちは、父なる神、子なる主イエス・キリスト、聖霊なる神を信じると告白しています。父、子、聖霊なる三位一体の神を信じることは、私たち罪人が神の愛の御業の中で、罪の赦しを信じることです。闇の中にいた私たちは、神さまの憐れみによって、赦されて救い主を仰ぎ、希望を抱いて生きる者にされます。
  宗教改革者マルチン・ルターは、「キリスト者の全生涯が悔い改めである」と語りました。私たちの罪、すなわち神に背を向けるということは、洗礼を受ける前も洗礼を受けた後でもくり返されるものです。洗礼を受けたから罪とは無関係とは言えません。神による罪の赦しがなければ、私たちは生涯赦されない者として生きる事になります。もはや、祈ることも讃美歌を歌うことも難しくなってしまうでしょう。しかし、聖霊なる神は、下を向いて、神に隠れて生きなければならない私たちを神さまに立ち帰り、神の御前に立つために赦されて生きる道を備えて下さいました。それが「罪の赦しを信じる」信仰です。
 使徒信条について書かれた本はたくさんあります。その一つの書物に、北陸のある教会を生涯支えてた一人の信徒の証しが紹介されていました。その方の洗礼は、隅田川の言問橋近くで廃品回収で生計を立てていた「蟻の町のマリア」と呼ばれた北原怜子さんの映画を見て、北陸の教会を訪ね、洗礼へ導かれました。その後、教会の中で様々な問題に直面します。しかし、痛みの中にある教会を支え続け、新しい牧師を迎えた数年後、生涯を閉じました。数十冊の日記を書きためていました。遺書も書き残されていました。遺書の最後に「私は、罪の赦し、からだのよみがへり、永遠の命を信じます。アーメン」と記されていたと紹介されていました。遺書は、使徒信条の言葉で閉じられていたのです。
 私たちが人生の総決算を迎える時、いま手に持っている物はなにも役に立たないでしょう。この地上で生きるためには多くの物が必要に思えますが、最後の日に備えるには何が必要でしょうか。最後の最後、私たちを支えるのは信仰ではないでしょうか。
 「私は信じる」というラテン語ではじまるのが使徒信条です。使徒信条は、私たちが人生において何度迷子になっても、どんな闇の中にたたずんでいても、そこで神の声を聞き分ける耳を与え、神の御許に立ち帰る道を照してくれるのです。何より、神に背を向けていた私たちが、神の方を向いて、神の御前に立ち、悔い改めて神に立ち帰る導き手として、大切な役割を果たすのが信仰告白です。
 教会において葬儀が行われます。その際、棺の中に、いろいろな物を入れるご家族があります。故人が好きだった物が添えられます。説教準備をしながら、私が棺に収まるとき、 何を入れてもらいたいか、なんてふと考えました。聖書や讃美歌は、家族の誰かにもっていてもらいたいと思いました。そうだ、使徒信条が記された紙を一枚入れてもらえれば十分ではないかと思いました。棺の中で、最後の悔い改めと信仰告白をすることは出来ないと思います。しかし、罪の赦しを信じますと告白する教会や家族に送り出してもらえれば、他には大好きな食べ物も飲み物もなにもいらないと思いました。
 罪の赦しの確かさは主イエス・キリストの十字架による贖罪と復活の出来事に根拠をもっています。使徒信条は罪の赦しの告白によって、罪の責任から解放してくれます。身体のよみがへりの告白によって、死の力から解放されて、確かな希望を与えてくれます。
 私たちは元気に生きている時には、罪の赦しに関心を向けることは少ないと思います。しかし、大きな病を得た時、真剣に考えはじめることがあります。
 浜松の聖霊事業団の病院にホスピスがあります。その病院の末期がん患者を診る医師から聞いたお話しです。その医師は、その後神学校に入り牧師になりました。
 ある末期癌患者との出会いのことです。誰が話しかけても心を開いてもらえなかったといいます。その患者は、余命が長くないことを受け入れて、孤独の中にいるように見えました。必要最低限のことしか話さないのです。しかし、或日、一言、罪の告白をしたいと言ったのです。そして、罪の告白の場所を設定し告白をしました。その罪の告白をした後、別人のように変えられました。心と体に明るさが与えられました。人との挨拶が自然に出来るようになりました。明るさを取り戻して別人のようになって最後を迎えました。生きている間に自分自身の罪の告白によって、罪を清算すること、神の赦しの言葉に自らを委ねたからだとその医師は話していました。
 教会は、教会員のご家族と共に愛する家族を天に送りながら歩みます。それぞれのご家族にとっては、大切なかけがえのない家族との別れの時です。しかし、葬儀において、死の闇が支配しているのではありません。召天された方がどこに行くのかわからないということでもありません。神に召された者は天へ勝利の凱旋をするのです。葬儀は神の御手に故人を委ねる時です。召天者はキリストにあって勝利者として神の御許にいるのです。この地上を最後に支配しているのは、死の力、闇ではなく、聖霊なる神の導きによって神の御支配の中にあることを忘れてはならないのです。死んで全てが終わるのではなく、復活のキリストに出会った物語を通して、再会の希望が与えられてます。キリストによって罪を赦されて信仰を告白する教会は、死から解放されます。この信仰を土台にして、確かな希望として身体のよみがえりが約束されているのです。
 罪を赦すことの出来るお方は、唯一の神だけです。主イエス・キリストは私たちの罪を赦すために、自ら身代わりとなって十字架上で祈り、犠牲の死を遂げました。神の審判を私たちの身代わりとなって引き受けてくださいました。それによって罪の赦しが与えられました。私たちはこの主イエス・キリストの救いの御業を、私の救いとして受け入れるのです。私たちはこの救いの御業を、時と空間を越えて働かれる聖霊の御業として信じ、赦されたものとして生きることが出来るのです。
 赦されて生きるという救いの確信は、洗礼を受けることと洗礼後に聖餐に与ることを通して与えられます。神は洗礼を通して、私たちに救いのしるしをお与えになります。この救いのしるしによって、私たちの名が天に書き記されていることを喜ぶのです。(ルカ 10:20)繰り返し聖餐に与るたびにあの一度の洗礼の恵みを思い起こします。主イエスが弟子たちに御自身の命としてパンと杯をお与えくださったことを思い起こすのです。この洗礼と聖餐によって、私たちの思いをはるかに超えた神の赦しに与るのです。最後の晩餐後、主イエスは弟子たちのために祈りました。ルカによる福音書 22 章 32 節「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
 私たちは、主イエスによって天に名前が記されているのです。それだけでなく、主イエスによって祈られているのです。私たちの思いではなく、主イエスに覚えられ祈られていることにこそ、救いの根拠があるのです。救いの根拠を人生の土台として、神の恵みに応えたいと願います。神の愛に押し出されて、兄弟姉妹を愛し、喜びを分かち合い、感謝の生活を送ることが出来るのです。
 主イエスの十字架と復活の贖いによって罪赦され、救いの確信を与えらました。復活した主イエスが 40 日間に亘って弟子たちや多くの人々と出会われました。この復活の主との交わり、共に食事をした喜びを味わったことを信仰によって思い起こします。この復活の主イエスとの出会いの出来事が、信仰生活の土台なのです。主イエスが昇天された後も、信仰によって、いつでもどこでも救い主の声を聞く事が出来ます。讃美と祈りをもって主の恵みに応えることが出来ます。こうして、主イエス・キリストと共に生きる感謝と希望の道が与えられているのです。
 使徒信条の最後は、「永遠の命を信ず」です。永遠の命は罪と死だけでなく、地上での苦しみや悲しみなどのあらゆる滅びから解放された命です。永遠の命にあずかるとき、私たちは変えられます。キリストの形に、また栄光の体に変えられるのです。私たちは永遠の命の交わりの中にあって、一人一人が死の支配ではなく命のご支配を生きるのです。永遠の命は世の終わりに突然来るだけでなく、私たちはすでに今、永遠の命に与っているのです。永遠の命は信仰を与えられたときからはじまっている喜びなのです。
 しかし、信仰によって永遠の命を与えられていても、信仰生活の途上、苦難や罪過によって繰り返し私たちの確信は不確実に思えてしまいます。しかし、そのような時であっても、キリストに結ばれたキリスト者は涙の中にありながら、慰めと喜びを分かち合うのです。罪と死を克服し解放してくださった主イエスの勝利の光によって、照らされるのです。
 宗教改革者カルヴァンは永遠の命についてこのように教えています。「あなたは永遠の命がどのようであり、何であるかについてあまり過度に考えるな。むしろあなた方がそこに至る道を歩んで、目標に至るまで根気よく持ちこたえるように心を配りなさい」と。ある神学者は永遠の命は讃美歌の中にありますと語っています。讃美歌を歌いアーメンと神の救いが確かであると歌うことこそ永遠の命であるといいます。主をたたえよ、ハレルヤと讃美することこそ永遠の命であるというのです。永遠の命は救われたものの感謝とキリストのものとされた希望の源なのです。
 信仰を与えられたキリスト者は、感謝と希望を大きくされて、使徒信条をもって信仰を告白し続けるのです。