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銀座の鐘

人知を超える神の平和

説教集

更新日:2023年11月12日

2023年11月12日(日)聖霊降臨後第24主日 銀座教会 主日礼拝(家庭礼拝)副牧師 川村満

フィリピの信徒への手紙 4章2-7節

「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。」
パウロはわたしたちにこのように語りかけます。わたしたちが、この世の生活の中で、あらゆることに思い煩ってしまうことをパウロはよく知っていましたし、パウロもまた、福音に生かされていても、ときに福音宣教の旅の中で、さまざまな思い煩いの中に苦しむことがあったことを、手紙の中で告白しております。しかしパウロは思い煩いの中で熱心に祈り、その祈りの中で、神の平和を与えられたのです。ですから、そのような恵みを受けた者として、わたしたちに「思い煩うことをやめなさい」と語りかけるのです。私たちの中で、思い煩ったことのない人などどこにもおりません。思い煩ってしまうのは、わたしたちの生活の中で日常的なことでありましょう。でも、できることならわたしたちも、思い煩わないで生きていきたいものです。なぜ、信仰に歩んでいるのにもかかわらず、わたしたちは思い煩ってしまうのか。ある人が厳しくもこのように分析しております。わたしたちは、じぶんがいつも愛されると言う自信がないのである。神がわたしたちを愛していると聞きながら、その愛を信じ切れないのである、と。それともう一つは、自分がこうだと思ったらいつでもそれが正しいと思うのである。つまり自分の見方を変えることができないのである、と。確かに、そういう頑固にも自分の思い込みや、自分の考え方を捨てることができずに生きているようなことがわたしたちにはあるのではないでしょうか。

 マザーテレサがこのように語っております。
「思考に気をつけなさい。それはいつか行動になるから。行動に気をつけなさい。それはいつか習慣になるから。習慣に気をつけなさい。それはいつか性格になるから。性格に気をつけなさい。それはいつか運命になるから。」
 はっとさせられるような言葉ではないでしょうか。もし、自分など、ダメだダメだ、といつも言っていたら、あらゆるダメな習慣を身に着け、否定的なことをいつも考える性格になり、ついに、良いことができない。愚かなことをしてしまうことが運命になるというのです。わたしたちの心の中にある思考、口癖。それらをまず自分の思いではなく、神の約束に変えなければなりません。わたしはたいしたことがない、という思考から、わたしは神から、宝の民として大切にされているという思考へ。わたしには才能がないという思考を捨てて、わたしには神に与えられた使命がある。そのために神が力を必ず与えてくださる、というふうに。そのように、聖書にちりばめられている神の約束に軸を置く。主の恵みの約束を基盤とするのです。それがわたしたちに求められていることです。
 主イエスも山上の説教の中でこのように語られます。「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」これは、いくら思い悩んだからと言って、わたしたちは自分の寿命をいっときだって延ばすことなどできない、ということを語っておられるのです。しかしこれはあきらめを促す言葉ではありません。そうではなく、わたしたちの命の主権を担ってくださっているのは主なる神なのだと言うことを信頼しなさいということなのです。わたしたちが、寿命を延ばすために、健康的な生活を心がけたり、食べ物に気を付けたり、お酒や煙草を控えたりする必要などないというような、放縦を促すものでも決してありません。神の恵みの御摂理は、わたしたちの人間としての理性や、正当な分別を無にするものではありません。わたしたちの考えや、常識的な生き方を含めて、神は私たちが御心に適う生き方ができるようにしてくださるのです。でもその都度、自分の理性や知恵を駆使して、最善を求めて歩んでも、そこでもなおわたしたちは思い煩うものであります。まさにそこでもなお生じてくる思い煩い。それは、自分の人生を、神様なしで生きようとする心です。わたしたちは実にしばしば、自分の生き方を、神様なしで考えているときがあるのではないでしょうか。そのとき、わたしたちは、神の恵みによって与えられている命であり、神の恵みによって与えられた全ての時であるということを忘れて、自分の人生の主人は自分自身だと思っているのではないでしょうか。
 そうではないのです。わたしたちの人生の主人はイエス・キリストです。わたしたちはイエス・キリストにおいて神のものとされた。神の御支配の中に生かされている。神がわたしたちの人生に深い御計画を立ててくださり、最も良き道へと導いてくださる。だから安心なのです。4節でパウロはわたしたちに強く勧めます。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」喜びの根拠はいつも、主イエスの十字架と復活です。あの十字架を仰ぐとき、わたしたちの罪はすべて赦されたこと。神はわたしたちの罪のために御子をお遣わしになり、私たちの罪を贖って神の子としてくださったこと。主イエスの復活によってわたしたちも死を越えて復活の命にあずかる者とされたことを思い起こします。それが喜びと感謝の根拠なのです。

 それゆえに、喜びなさい、とパウロはわたしたちに語りかけます。わたしたちが喜びに生き、感謝の心に生きるとき、何をすればよいのでしょうか。それはまさに礼拝をささげるということです。礼拝とは、毎週の日曜日に礼拝堂でささげる礼拝であります。しかしそれだけではありません。ローマの信徒への手紙12章1節でパウロはこのようにも語ります。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐みによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」つまりキリストの救いにあずかって、喜びと感謝をささげるわたしたちの全人生が、礼拝となるのです。その意味では、礼拝堂に出席できない方々も、その心において、礼拝をささげているのです。しかしそのためには、日々、祈りをささげ、そこで主を讃え、感謝を表さなければなりません。思い煩いの中でも、感謝を表し、祈りと願いをささげることはできるのだ、とパウロはわたしたちに教えてくれます。
パウロはこう語ります。
 「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」わたしたちは求めているものを神に打ち明けてよいのです。それこそ、何でも、遠慮なく、子供が自分の父や母に対して、欲しいものをねだるように、これをしてください、これを下さいと願ってもよいのです。なぜならわたしたちは神の子だから、天の父はわたしたちの必要をよくご存じなのです。本当に必要なものは天の父は喜んでくださる。そのことを信頼して、打ち明けてもよいのです。
「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」
 人知とは何でしょうか。それはわたしたちが地上で経験し、学び、理解し、知っている全てのことです。わたしたちは自分の知っていることに基づいて行動します。しかしそこに、神様のことを計算に入れないのです。つまり神様の愛によるお計らいがある、ということを考えないで、自分の知恵、自分の力だけでなんとかしようとするのです。だから私たちの心から、思い煩いが消えないのです。ある人がこのように語ります。わたしたちの心配について、神がなさる場所を空けておこうではないか。神の心配にしておきなさい、と言うのです。わたしたちはここで、知恵と信仰のふたつが必要なのです。理性や分別において、できる限りのことはしなければなりません。でも、全部してはならないのです。勝手に、全てを決めて、神様なしで進めてはいけないのです。本当に大事なところ、神の御心が問われるところがあります。そこを空けておくのです。それ以上行かないのです。動いてはいけないのです。そうすると、神様がそこを、御自身の心配にしてくださる。わたしたちは憂いの中であたふたとうろたえてしまいます。しかし、神様は決してうろたえることはありません。なぜなら、神は全知全能なる方であり、その全知全能のご意志は、いつも深い愛に基づいているからです。わたしたちの人生はこの、愛と、全知全能の中に今日も生かされています。そしてわたしたちは永遠の御手の内にあるのです。だからこそ、わたしたちは、全てをゆだねることができるのです。どうか皆さんの心の内に、あらゆる人知を超える平和が支配してくださり、御心に適う歩みができますように。

 お祈りをいたします。
天の父なる御神様。わたしたちの心に、平和を与えてください。なかなか、自分の心にある思い煩いを捨てることができません。悩みの中で、わたしたちは自分の思いだけで、生きようとしてしまいます。その不信仰をお赦し下さい。そしてどんなときにも、わたしたちがあなたのものであり、最も良き計らいの中に生かされていること。万事が益となること。幸ならぬ禍はないことを本当に信じきる者とならせてください。あなたの御心に適う歩みができますように。いつも、主が私たちの内に生きてくださっていることを思い出させてください。今週の一週間の歩みを豊かに導いてください。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン