神 を 愛 す る 人 々
説教集
更新日:2024年02月10日
2 0 2 4 年2 月4 日 (日)公現後第5 主日 銀座教会 家庭礼拝 牧師 髙橋 潤
ヤコブの手紙1章12~15節
12 試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束さ れた命の冠をいただくからです。13 誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と 言っては なりません。 神は、 悪の誘惑 を受 けるような方ではな く、また、御自分 でも人を 誘惑したりなさらないからです。14 むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、 唆されて、誘惑に陥るのです。15 そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熱して死を生 みます。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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聖書にはヤコブという名の人が複数います。主イエスの12弟子には二人のヤコブ(ゼベダイの子ヤコブ、アルファイの子ヤコブ)がいます。他にも主イエスの弟のヤコブ、その他数人のヤコブが登場します。手紙を書いたのはどのヤコブなのか研究者の間でも意見の一致は見いだせません。手紙の場合、差出人と究名はとても大切です。しかし、聖書は差出人が分からない場合でも、聖書は神の言葉として聞くのですから、神から私たちに宛てられた手紙として受け止めます。この手紙が書き記された動機は何でしょうか。ヤコブ書は、便徒パウロが主張した、行いによってではなく信仰によって義とされるという信仰義認の教えに反対したり対立するために書かかれたの ではないということを理解したいと思います。借仰義認を否定して、信仰ではなく行いによって救われる教えと単純に理解してはなりません。ヤコブ書は信仰を曲解したりまたは誤解して、神と信仰から離れてしまった人々に向けて書かかれているのです。そうした人々に対して、主イエスの福音に立ち帰るように、使徒パウロが命をかけて語った福音、御言葉を正しく受け入れることが出来るように願って書かれたのです。便徒パウロが語った、行いによってではなく、信仰によって義とされるという教えとヤコブの手紙とは単純に矛盾している、または対立している と指摘されることがあります。しかし、そう簡単なことではないのです。信仰義認の教えを受け入れた人々が、信仰生活の途上で、行いと信仰を別々のこととしてしまい、信仰を曲げて理解してしまったようです。ヤコブ書は、そうして死んでしまった信仰を生きた信仰へと回復させるために書かれたのです。
ヤコブ書が見ている信仰者は、信仰者とは思えないような言動をしながら、信仰者として振る舞っていたようです。信仰によって義とされたのだから、行いも発言も自由であると考えたようです。そのように使徒パウロの教えを誤解して、信仰と行いが分離してしまった人々が、生ける信仰へ立ち帰るために記されたのです。
パウロの教えを曲解していた信仰者は「舌を制することができず、自分の信心を欺く」人々と説明されています。信仰によって義とされているのだから、何を語ってもいいと考え、自らの「舌を制する」こともなく、語っていたようです。ヤコブ書は 「そのような人の信心は無意味です。」と語っています。また、「自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」と語られて。せっかく与えられた信仰が死んでしまわないように願っているのです。ヤコブ書は「人を分け隔てしてはならない。」と話ます。神に愛され赦され、信仰を与えられたにもかかわらず、人を分け隔てる人々の言動と同時にその信仰を問題にしているのです。借仰によって生まれる行いが伴わない信仰者の姿が浮かび上がってきます。そもそも人を分け隔てるということは、神の評価を差し置いて人間の勝手な判断を神の決定であるかのように 行動しているのです。結局、自ら神を神とすることを否定して、自分を神にしていることになってしまっているのではないでしょうか。信仰の名の下に自分を神にしてしまっているのです。そして、人を分け隔てているのではないでしょうか。信仰によって義とされるということは、義とされた者が神になるのではないのです。そうではなく、 与えられた信仰によって神を神とし神の御前に跪き、赦しを求め、赦された喜びを神の御前に感謝する生活を生きるのです。だから12節、「12 試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をい
ただくからです。」と語られているのです。「試練」という言葉(ギリシャ語ペイラスモス)は、誘惑と訳すことが出来る言葉です。外からの試練を受けるとき、罪への誘惑があります。主イエス・キリストは悪魔の誘惑を受けるために荒れ野へ行ったことがマタイによる福音書4章に記されています。「神は悪の誘惑を受けるような方ではなく」というのは、神が悪の誘惑に負けるような事もないし、神が誘惑者になることもないということと理解します。主イエスこそ悪魔の誘惑に際して、御言葉によってサタンよ退けと命じ、サタンの誘惑を全て退けたのです。
「神に誘惑されていると言ってはなりません」とあります。ヤコブ書において信仰を曲解した人々は、神は悪魔をも創造したのだ。神の創造物である悪魔の誘惑に会うということは、「神に誘惑されている」と曲解したのではないかと思われます。神の誘惑に身をまかせることを正当化する理屈によって、信仰から離れた行いを正当化しているのです。誘惑に落ちてしまっている責任を神の責任にしている人の姿です。ヤコブ書が問題にしているキリスト者は、神に成り代わって人を差別し、都合が悪いときにはその責任を神に負わせようとする者の姿です。信仰を与えられた者は、十字架を仰ぎつつ、試練をしっかりと引き受けて生きるのです。12節にあるように、希望をもって試練を耐え忍んで生きるのです。
「幸いです」は、マタイによる福音書5章で主イエス・キリストがお語りになった山上の説教の8つの幸いを思い起こさせます。 特にマタイによる福音書5章10節 「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」と重ねて読むことが出来ます。「試練を耐え忍ぶ」とは、マタイによる福音書24章12 ~13節「12不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と主イエスがお語りになった御言葉を思い起こさせます。 主イエスは最後まで耐え忍ぶ者は救われるとお語りになっているのです。
信仰を持って試練を耐え忍ぶ者には、神の報いとして「命の冠」が用意されているのです。希望をもって耐え忍ぶ者に「朽ちない冠」(1コリ9 :25)「義の冠」(2 テモテ4:8)が約束されています。信仰に基づく行いとして試練を耐え忍ぶ者に用意されている命の冠、朽ちない冠、義の冠が用意されているのです。
私たちは、ヤコブ書を通して、信仰生活には危機があること、その危機を乗り越える道をしっかりと見定めなければならないことを学びます。信仰生活には必ず危機があり、私たちは悔い改めることを忘れ、自己正当化へ走るのです。言い訳を沢山考えて神の御前に餓悔しないのです。自己正当化している時、気付かなければならないの は、いつの間にか自分自身を神にしてしまっているということです。
神の御前に立つ時、私たちはただただ神を神とし、自己正当化や自己保身などに 走ってはならないのです。なぜならば、神を神とすることが信仰だからです。神は全てをご存じなのです。私たちはひたすら神の御前に懺悔し悔い改め、赦しを祈り、主イエスに従うほかないのです。キリスト数信仰は、神が生きていることを証しする生活です。神は目には見えませんが私たち宿仰者といつでも共におられます。神とはなれることができないほどに共におられるのです。復活のキリストを私たちが自分の都 合に合わせて同伴してもらったり、離れたりすることができるでしょうか。出来ません。 人間の都合で変えられると思うことこそ、神を神とすることなく、自分自身が神になっていることなのです。神を借じる信仰ではなく、信仰が死んでしまうことになるのです。
神は私たちを愛してくださいました。神が私たちを愛したということは同時に自由を与えてくださったということです。ゆえに、私たちに与えられた自由として、信仰を殺すことも信仰を感謝していただくことも私たちに委ねられているのです。私たちの過去も現在もそして将来も復活の主イエス・キリストが同伴してくださるのです。信仰生活では、信仰と行いは切り離すことが出来ないのです。
十字架の主イエスを裏切り、見捨てた弟子たちが復活の主イエスに出会い、罪の行いにもかかわらず愛されていたこと、裏切った弟子たちを赦し愛し見捨てない神に出 会い、神の恵みによって共に生きる信仰が与えられました。
しかし、直接復活の主に出会った人々の時代から時を経るにつれて、神の恵みに留まらず、自己中心の罪に落ちてしまったのです。生き生きとした神の恵みを聖書の御言葉によって思い起こすには、どうしたらよいのでしょうか。信仰者は私たちに与えられた信仰の健康診断を受けることが必要なのです。信仰の健康診断こそヤコブの手紙です。
試練は信仰の健康診断です。試練の時にこそ十字架の主イエスの御苦しみを思い起こし耐え忍ぶのです。しかし、試練の時、自分を神としての苦しみに支配され、こんなに正しい私に試練を与えたのは神の責任であると考え、神を信じる信仰から離れて、欲望のままに生き、自己中心の道を進むのです。ヤコブの手紙1章21 ~2 節には 「21 だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。 22言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」
信仰について思い違いをしてしまう時、再び健康な信仰へと癒やされなければなりません。試練や誘惑の中でこそ、御言葉を受け入れるのです。御言葉を聞いて行う人になることによって、健康な信仰、「魂の救い」が与えられるのです。
信仰によって義とされた私たちは心も体も重病に罹ることがあるのです。御言葉 を聞いて行うことによって信仰のリハビリ、健康な信仰へと癒やされたいと願います。
ルカによる福音書22章32節 「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりない。」
私たちは、主イエスに祈られているのです。 健康を取り戻すことが出来るのです。