信仰 の 実 り
説教集
更新日:2024年02月11日
2 0 2 4 年 2 月 1 1 日 (日) 公現後 第 6 主日 銀座教会 主日礼拝(家庭礼拝) 副牧師 川村満
ペトロの手紙- 1章3- 9節
3わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、4また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。5あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。6それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、7あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。8あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。9それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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1、信じ、洗礼を受けて救われる
本日のわたしたちの礼拝において与えられた御言葉の全体で語られておりますのは、救いとは何か。あるいは、救いの素晴らしさ、と言ってよいかと思います。
もうずいぶんと昔のことです。東京神学大学の神学生であったころ。仲良くなった先輩。彼はバプテスト派という背景の信仰で育った人でありましたが、このように言わ れたのを覚えています。「川村君は、いつ救われたの?」といつ、救われたのか、と聞かれて最初わたしはその意味がいまいちよくわからず聞き返しました。すると、「ああ、君の教会ではそういう言葉遣いはしないのか」と言って洗礼を受けたのはい つかと言い直してくれたのです。そこで、洗礼を受けた日というのが救われた日なのかと、わたしもそこで初めて洗礼の意味の大きさ、深さを再認識することができたのです。ある神学者が言うには、このペトロの手紙には、洗礼についての記述はほとんどないけれども、しかし実はこの手紙には、洗礼について、暗に語られているのだと。「キリストの復活によって」とか「わたしたちを新たに生まれさせ」とか、ほか にも、多くの、新生についての記述。救いについての記述がなされております。そのような言葉の背景には、「その恵みを、洗礼を受けることによって」という意味が隠されているのです。いわばそれは、いわずもがな、ということであろうかと思います。キリストのよみがえり。これを情仰において受け止めるならば、洗礼を受けて良いのです。洗礼を受けるように招かれているのです。もっといえば受けなければならないのです。そのように、わたしたちは皆 、福音を聞いて受け入れたならば信仰を告白して洗礼を受ける者となるのです。
宿仰とは、神がわたしたちに成し遂げてくださったことを後から追認することでしかないと、ある人が申しております。わたしたちがキリストを信じますと告白するときには、すでにそのとき、主イエスがその人をとらえてくださり、主の恵みの中に生かされた結果であるということです。洗礼を受けたいと言う志は、その人自身の内から湧いたのではなく、その人の内に働いた神様の御業なのです。誰も主の介在なしに、洗礼を受けたい、信じたいとは思わないのです。
2, 讃美の根拠
パウロは、この3節で「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。」と主をたたえて、その讃美の根拠を簡潔に語っています。 「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え・・・」豊かな憐み。この 一言で表されているのは、主イエスがわたしたちのために成し遂げてくださった十字架による罪の赦しと、復活の命を私たちに聖霊を通して注いでくださった一連の福音の御業であります。ペトロの手紙一は、借仰の入門的な手紙であると呼ばれているそうです。なぜそう呼ばれているかというと、ここが私たちの信仰の急所であるからではないでしょうか。私たちがイエス・キリストの福音を信じて救われたということ。 それはわたしたちの全人生において、最大にして、最高のものをすでに与えられてしまったということです。それは何かというと、罪の赦しと永遠の命です。私たちは洗 礼によって主イエスの十字架の死と、復活に与ったのです。私たちはまさにあのとき主イエスと共に死んで主イエスと共に生まれ変わったのです。そして、このことはまだ信仰を告白していない人においても実は同じなのです。なぜなら、信仰告白とは、 すでにわたしたちのために主が成し遂げてくださった恵みの出来事の追認に過ぎないからです。あなたのために、ゴルゴダの十字架で主がすでに全ての罪の責任をとって 死んでくださった。そのことが礼拝をさげていくうちにだんだんと分かってまいりま す。あなたのこと、私たちのこととしてわかってきたとき、だんだんと嬉しくなるのです。その喜びを感じて、では私もキリストを信じます、となったときにすでにあな たの心には神の愛が注がれたのです。
「死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え・・・」生き生きとした希望!! 口語訳のほうが原文に近く、「生ける望み」とあります。この希望は生きているのです。幻や希望的観測というのではなく本当に生きている。生き生きしている。なぜなら永遠なる神にかかっている希望であるからです。
私たちがこの地上でもっている何らかの希望があります。たとえば長生きしたい。病気をせずに暮らしたい。若者ならば、どこそこの大学に合格したい。資格を取得して、スキルを上げて海外で移住して仕事をしたい、などなど、さまざまなことに思いをはせたりする。若者の希望。壮年のもつ希望。高齢者のもつ希望。それぞれ人生の ステージによって変わってまいります。しかしそのようなさまざまな希望の根拠に自分がいるとき。その希望の軸が自分自身であるときには、必ずしもその希望が実現するとは限らないと思います。たとえ実現するとしても手に入った時点でそれは当たり前になります。希望として追い求めるものではなくなります。
ローマの信徒への手紙の8章24節にこのようにあります。「見えるものに対する希 望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」この御言葉 にあるように、目に見えない、肉体の五感によってはとらえることはできない。しかし信仰によってわたしたちは神の救いの福音を聞いて、喜びがここに湧いてくるのです。この喜びこそが希望です。主の約束。福音を信仰において受け止めたがゆえの、喜びと希望なのです。
ここでは過去の事と将来のことが語られます。過去のこと。つまりすでに実現してしまっていること。それが3節で、これまで語った福音の現実が私たちの内に実現しているということです。しかし4節の。「あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」という御言葉はまだ実現しておりません。 これは神の国の継承者としての確備と希望です。これを真実と信じて、将来を見据えることができるのは、過去に主イエスがわたしたち にしてくださった出来事を信仰において受け止めているからです。朽ちず、汚れず、しぼまない財産とは何か。
私たちは長くても100年ほどのその短い人生を有意義に生きるために、財産を増やそうと必死になりますが、そんなことをしても、案外と人生の半ばで死ぬかもしれませんね。皆さんが今持っておられる家や土地を含めたさまざまな財産。それらはどんなに気に入っていても、いつかは手放さなければなりません。天国には持っていけな いのです。死と共に、地上の全ての財産とは関係が切れてしまうのです。主イエスがおっしゃいます。たとえ全世界を手に入れても自分の命を失ったら何の得があろうか、と。真の財産は天に積まれるのだ、と。「天に富を積みなさい」と主イエスは言われます。私たちが神の御心に適う歩みを歩むとき、そのようにして主に栄光を帰す時、そのときわたしたちは天に富を積んでいるのです。コリントの情徒への手紙一の3章で、裁きの日に明らかになるわたしたちの地上での歩みがあるのです。それが私 たちの将来に約束されている栄光の富のことです。私たちの将来に約束されている主の約束を、わたしたちはただただ信仰によって受け取っていると言えます。神様は真 実であり、絶対に嘘をつくことはありえません。だから、あなたの罪は赦された! 私 の復活の命をあなたにあげよう。あなたは今日からわたしの子供だ!そう言われるならば、私たちの目に見える現実がまだいろいろな課題があり、まだまだ清くなってい ないとしても本当に、もう神の子となってしまったのです。 私の感じていることよりも主の約束の方が確かなのです。でもそれを、本当に借頼して神の子とされた! と喜べるのは、やはり私たちの信仰なのですね。しかし、ではわたしたちはその信仰から外れないように頑張って言じ続けなさいとペトロはここで言うのか、というと、ペトロはそんなふうにはここで言ってはいないのです。「あなたがたがは、終わりの時に現わされるように準備されている救いを受けるために、信仰によって守られています」(5 )と語られます。私たちが将来、その救いが確かに実現するそのために、神の力によって守られている。私たちが神を信じるということそのものが、神の御力によってちゃんと守られているのです。だから途中で信仰を失って救いから外れるなどということはありえない。ペトロが、三度も主イエスを否む、その前に、主イエスはそのことを預言されたあとに、こういわれました。「わたしはあなたの信仰がなくならないように主に祈った。だから立ち直ったら、兄弟を励ましてあげなさい」と。主イエスは今も、わたしたちの信仰がなくならないように天でとりなしの祈りをささげてくださっているのです。わたしたち一人一人のためにです。これまでのお伝えしたことの故に、わたしたちは常に、神をほめたたえる者に変えられました。そしてこれこそが私たちキリスト者の救いの喜びなのです。「それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。」神を主人として生きる人生。死を越えて続く希望の人生を歩む者とされた。わたしたちの人生は神のものとされた。それゆえに、全能の神が愛の神、隣みの神であるがゆえに、私たちは、神をほめたたえる者となったのです。この喜び こそが、私たちの日々の生活の原動力となるのです。この喜びを携えつつ、与えられ た人生の日々を、希望をもって歩んでいきましょう。
お祈りをいたします。
天の父なる神様。わたしたちに 仰を与えてくださり、その 仰をいつもあなたの力によって守ってくださっております幸いを心より感謝いたします。この救いの喜びを人生の最期まで確かに携えて、神の国をますます希望をもって待ち望む者。死を越えて続く永遠の命と神の御国を待ち望む者として歩ませてください。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン