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銀座の鐘

「神は愛です。」

説教集

更新日:2024年02月24日

2024年2月25日(日)受難節第2主日 銀座教会 礼拝(家庭礼拝)伝道師 山森 風花

ヨハネの手紙一 4章16b~21節

 本日私たちに与えられました聖書箇所はヨハネの手紙一 4.16b-21節の御言葉です。本日の聖書箇所の冒頭には、私たち人間を含むすべての天地万物を造られた全能の父なる神様の本質が一言で示されています。それは「神は愛です」という16節の言葉です。私たち信仰者は、神は愛である、ということをよく知っていますし、また口にすることもあると思います。しかし、神は愛である、ということを私たちは生まれながらに知っていたわけではありません。かつて信仰者となる前、私たちは神が愛であることなど知らずに生きてきました。ですが、神は愛である、ということを私たちにあきらかにし、告げ知らせる決定的出来事によって、私たちは神は愛であるということを知り、信じ、告白することができるように変えられたのです。この神は愛であるということを私たちに明らかにした決定的出来事について、ヨハネの手紙一はすでに 4章9-10節でこのように記しています。
「9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに神の愛がわたしたちの内に示されました。10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
 つまり、罪にまみれ、死と滅びに向かって生きるほかなかったこの私たちが滅びるのではなく、生きるようになるために、神様の愛すべき独り子、イエス・キリストを神様はこの世へとお遣わしくださったのです。なぜなら、イエス・キリストこそ、私たちに永遠の命を約束してくださる唯一の救い主だからです。また、ここではっきり言われているように、天の父なる神様が愛すべきイエス様を世へとお遣わしくださったのは、私たちが神様を愛したからとか、何か特別な功績による褒美としてなどではないのです。そうではなく、ただ一方的な私たちへの無償の愛によって、罪を償ういけにえとして、御子イエス・キリストを神様は私たちにお遣わしくださったのです。
この神様の愛による御子イエス・キリストの派遣によって明らかにされた決定的な救いの出来事を通して、私たちは神は愛であるということを知る者となりました。それまでは私たちは神は愛であるということ、そもそも天の父なる神様のことも知りませんでした。ですが、神様がイエス様を通して、私たちに愛を示してくださり、また、御自分が愛であることを示してくださったからこそ、私たちはこの愛にとどまり、そして神様の内にとどまることがゆるされているのです。そればかりか、このように私たちが神の愛に留まり、神様の内にとどまるとき、神様も私たちの内にとどまってくださると16節には記されているのです。
 さて、続く17節では「こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。」と、裁きの日、終末の時、最後の審判について語られています。裁きの日というのは罪人にとっては有罪判決、死刑が下される日ですから、当然恐れを抱かずにはいられません。本来であれば、神に背きながら生きていた罪人である私たちは、裁判官である神様によって裁かれ、有罪判決を下され、滅びるはずでした。ですから恐れを抱きながら、この終末の裁きの日を待たなければならなかったのです。しかし、驚くべきことに、この手紙の著者は、神の愛がわたしたちの内に全うされているので、わたしたちキリスト者は裁きの日に確信を持つことができるというのです。
 この「確信」と訳されている言葉は七十人訳聖書、つまり、ギリシャ語で訳された旧約聖書においては、神との関わり、特に神の前で大胆に語るという意味で用いられています。つまり、私たちは有罪判決に怯えてビクビクしながらこの裁きの日、神の前に立つのではなく、大胆に、神様の前に立つことができるようにされているというのです。なぜなら、それは天の父なる神様が、イエス・キリストの十字架の死によって、私たちの罪を贖ってくださり、私たちが滅びるのではなく、生きることができるようにと救ってくださったからに他なりません。
 だからこそ、18節で手紙の著者は「18 愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。」と記すのです。「愛には恐れがない」という言葉の通り、まことの愛であられ、全知全能の神様には何物をも恐れる必要がありません。しかし、弱く、罪深い私たち人間は恐れを抱きます。いや、抱かずにはいられないのです。ですが、この私たち人間の弱さから生まれる恐れを、完全な愛が閉め出すというのです。完全な愛、それは神の愛です。私たちを罪から救い、裁きの日に私たちに無罪判決を下すために、愛すべき御子をも遣わしてくださるほどの完全な神の愛です。つまり、私たちが恐れを閉め出すのではなく、神の愛が恐れを閉め出してくださるとここでは力強く記されているのです。
 続く 19節には「19 わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」と記され、私たちの愛の根拠が神の愛であるということがはっきりと宣言されています。これは私たちが御子イエス・キリストによって神の愛を知ったからこそ、「私は神様を愛しています」と告白する者へと変えられたことからも明らかです。しかし、手紙の著者はさらに 20-21節で鋭くこのように記しています。「20「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。21神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。」
 このような言葉を聞く時、私たちは自分が偽り者であるということを思わされるのではないでしょうか。また、このように自分自身を見つめるとき、「神を愛している」と告白しながら、いかに自分が兄弟姉妹を愛せていないかを思い知らされるかも知れません。
 しかし、私たち自身を見つめるとき、それは当然のことなのではないでしょうか。なぜなら、私たちの本質は愛ではないからです。むしろ私たちは、あの肉親の弟を殺したカインのように、血の繋がった兄弟姉妹すらも愛せない、そのような罪の性質を生まれながら持っているのではないでしょうか。これこそが、私たち罪人の本来の姿、本質なのではないでしょうか。私たちは兄弟姉妹を愛せないというこのおぞましい自分の姿に気づかされるとき、受け入れたくない、もしこの本質が明るみに出てしまえば誰も自分のことを愛してなどくれないと恐れ、なんとかして隠そうと足掻くのではないでしょうか。
 しかし、このような私たちの罪の姿、醜い本質をすべてご存じでありながらも、私たちを愛してくださるお方が確かにいるのです。それは他でもないこの天地万物を造られた全能の神、この方こそが、罪に塗れたこの私たちを愛してくださるのです。なぜなら、神は愛だからです。聖書にはっきりと記されているように、このまことの愛であられるお方が私たちを愛してくださっているのです。そして、御自分のもとへと招いてくださり、私たちと交わりを持つこと、それも永遠に終わることのない愛の交わりを持つことができるようにと、愛すべき御子を十字架にかけてくださったほどに、私たちを愛してくださっているのです。このような驚くべき神の愛のうちに私たちがとどまることがゆるされ、また、この私たちのうちに神ご自身がとどまってくださっているのです。それゆえに、私たちは神を愛する者、また、神によって愛されている兄弟姉妹を愛すことができる、そのような一人一人へと変えられたのです。
 確かに神を愛し、また兄弟姉妹をも愛するというのは、私たちの本質、また、努力によっては決してできません。このような神の掟を私たちは自分の力では決して守ることも、また、守ろうという思いさえも抱くことができません。ですが、神の愛を知り、信じる者へとかえられた今は違います。私たちはこの神の掟を受け入れることができるのです。この掟を守りたいと思う心が与えられているのです。それはこの罪にまみれた私たちに愛すべき御子を与え、私たちを愛し、いつも招き続けてくださる神の愛を知ったからです。だからこそ、この神の愛に応答する者になりたいと、神様に喜んで頂きたいという思いが与えられているのです。神は愛であるということを知り、この愛の内にとどまっていなければ、また、愛なき私たちの内に、愛である神がとどまってくださらなければ、兄弟愛を抱くことなど私たちにはできなかったことでしょう。
 確かに私たちには、兄弟姉妹を、隣人を、敵を、また自分さえもまことに愛することができません。しかし、このような私たちを愛し、私たちを招き、そして、私たちの内にとどまって、私たちの内に働いてくださるお方がいることを、今朝改めて覚えたいと思います。まことの愛であられる神様は私たちに対して、自分自身の力で愛するようにとおっしゃってなどいないのです。ただ神、まことの愛であられるこの神のうちにとどまるようにと私たちに語りかけてくださっているのです。それはヨハネによる福音書 15章4-5 節にこのように記されているとおりです。

15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

  私たちは何もできません。兄弟姉妹を愛することも、神様を愛することもできません。しかし、そのように愛することも何もできないこの私たちのことを、主なる神様はよくご存知であられるのです。しかし、それだからこそ、私たちに愛すべき御子イエス・キリストを与えてくださったのです。ただこの神の愛すべき御子イエス・キリストに繋がる者になりなさい、そして御子の父である私に繋がり、私のうちにとどまりなさいと語りかけてくださっているのです。このような神様の大いなる愛が今朝も、そしてとこしえに私たちに降り注がれているのです。ですからこの神の愛に応答する一人一人として、主イエスに繋がれたぶどうのひと枝ひと枝として、この地上での信仰生活を神の愛のうちに、喜びを持って歩んでまいりたいと願います。