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説教集

更新日:2024年03月02日

2024 年3月3日(日)受難節第3主日 銀座教会 家庭礼拝 牧師 髙橋 潤

ヨハネの黙示録21章1~8節

 ヨハネの黙示録は新約聖書中で最も理解しにくいと言われます。ヨハネの黙示録は、ヨハネによる福音書、ヨハネの手紙 1,2,3 と共にヨハネの名を冠にしてヨハネ教会として、相互に深い関係があると理解する研究があります。ヨハネの教会の文書は新約聖書の中では、かなり大きな位置を占めることになります。黙示録を通して御言葉に聴きましょう。
 「黙示」という言葉はギリシャ語で「アポカリュプシス」といい「隠れているものをあらわにする」または、「隠されていて今やあらわにされたもの」を指すという意味であると説明されています。ヨハネの黙示録 1 章 1 節は「イエス・キリストの黙示」と記されていて、この「黙示」という言葉が聖書本文にはここだけに登場しています。表題の「黙示録」というのは後の時代につけた題ですので、聖書本文には 1 章 1 節の「イエス・キリストの黙示」が唯一の用例なのです。執筆者ヨハネはイエス・キリストの隠れているものをあらわすことがヨハネの黙示録であるということになります。
ヨハネの黙示録の著者は、小アジアにある教会の指導者であったと考えられています。書かれた時期はローマ皇帝ドミティアヌスの時代、紀元 95 年頃と推測されています。迫害が激化しキリスト教徒が弾圧された時代、迫害下のキリスト者を支えるために執筆されたと考えられています。ヨハネの黙示録は旧約聖書のダニエル書の後半に似ていて、象徴的なものの比喩によって、キリスト者への弾圧の厳しさを伝えています。
ヨハネの黙示録は 7 つの教会への手紙から始まり、キリストの再臨で閉じられています。本日与えられた聖句は、キリストの再臨の直前に語られた新天新地を記す21 章です。
 小アジアの諸教会は、偽の指導者、貧困、殉教などの苦難に耐えながら信仰生活をしていました。最大の危機は、皇帝礼拝を迫るローマ帝国の迫害でした。当時のキリスト者は獰猛な獣の餌食にされ、見せしめの刑にされました。皇帝の暴力による支配が続いていました。外からの迫害に加え、教会の内部の問題もありました。教会員同士の誹謗中傷による苦難、偶像にささげた肉を食べさせ、淫らな行いに誘う者、信仰を失った者がいました。小アジアの教会指導者は、十字架の死よって犠牲となり、血を流した主イエス・キリストに心を向けました。ヨハネの黙示録 7 章 17 節「玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。」小羊である主イエス・キリストが命の泉に連れて行ってくださる。神自らが彼らの目の涙を拭ってくださいます。主イエスは迫害によって苦しめられる人々を「命の水の泉」へ導き、涙を拭い、慰めと癒しの言葉を語りかけてくださるのです。そして、十字架のイエスが終わりの時に、再臨すると約束されています。

 ヨハネの黙示録 21 章 1 節「新しい天と新しい地を見た。」と宣言される前、18 章では「バビロンの滅亡」が語られ、19 章において「サタンの敗北」そして20 章に「最後の裁き」が語られています。「バビロン」とは紀元前 6 世紀ユダヤ民族が戦争に敗れて、数千キロメートル離れたバビロンへ連行された残酷な捕囚の出来事を思い起こさせます。「バビロン」はバビロニア帝国の首都でありユダヤ民族を最も残酷な仕打ちをしたバビロン捕囚の支配者の象徴です。黙示録では古代の「バビロン」で当時のキリスト者迫害の旗頭ローマ帝国を暗に名指ししているのです。すなわち「バビロンの滅亡」はローマ帝国の滅亡を暗示していることになります。そして、ローマ帝国による迫害の背後に隠れている黒幕であるサタンが敗北するというのです。そして、「最後の裁き」が行われます。この最後の裁きによってサタンが滅ぼされ、大きな白い玉座に座っておられる方が、死と陰府もその中にいた死者をも裁いたのです。「最後の裁き」は神がサタンを滅ぼして終わります。神は死も陰府も火の池に投げ込まれたと20章14節に記されています。そして、「新しい天と新しい地」を見たと語られているのです。
 この「最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。」という御言葉は、迫害するローマ帝国が滅亡し、サタンが敗北し、神の裁きを通して、最初の天地は去って行き、サタンの支配のかけらもなくなったという意味です。迫害者サタンが滅亡し、敗北し裁かれたのです。神の完全な勝利によって、新しい天と新しい地が出現するのです。
 新天新地の、「新しい」という言葉はギリシャ語でカイノスという言葉です。ギリシャ語には新しいを表現するもう一つネオスという言葉があります。例えばネオスは新しい年という場合に使われます。ネオスの新しさは、新しいけれどやがて古くなってしまうということを含めています。新しい年は年の終わりまで新しさを保っていくことはできません。やがて古くなってしまいます。今新しいけれどやがて古くなる時の新しさがネオスです。英語のニューはネオスから派生した言葉です。人間も青年はネオス、人もやがて年をとってしまうからです。それに対してカイノスは絶対的な新しさを表現します。決して古びることのない新しさを現しています。ヨハネの黙示録でカイノスが用いられているので例外なしに古びることのない、それまでは全く知られていなかった見たことのない、新しい天と新しい地が実現すると語っているのです。古い世界が少し残ったり、古さが共存する新しい世界ではなく、全く新しい世界です。古い世界は過ぎ去って、決定的な新しさ、すなわちカイノスの世界が実現するのです。ヨハネの黙示録は歴史の最後に現在の世界が完全になくなり、新しい天と新しい地が出現することを見ているのです。古い世界、苦しい世界、帝国支配という時の世の秩序が逆転します。今、支配し栄えている人は滅び、偶像崇拝を強制し信仰を脅かし破壊し混乱させる勢力、希望を踏みにじる勢力がその根元から消え失せるのです。そこに新天新地が出現します。
 2節「新しいエルサレム」が花嫁のように天から下ってきます。そして大きな声が聞こえてきます。「新しいエルサレム」はカイノスのエルサレムです。花嫁のような方が神を離れて下ってきます。神から離れて絶対的に新しい方「新しいエルサレム」は、私たち一人一人が集う古びることのない教会のことです。新しい教会は、大きな声を聞きます。「3そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。」新天新地、新しいエルサレムに響いた声はどんな言葉でしょうか。
 「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、4 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
 1節に「もはや海もなくなった」という言葉に重ねて、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」、神自ら彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださるという声を聞いたのです。これは夢を見ているのではありません。信仰によって夢が現実になるのです。神の声を聞いているのです。
 新天新地、新しいエルサレムは、カイノスですから、ローマ帝国への恨みも復讐も不要なのです。神の裁きによってすべて清算されています。私たちが裁くのではありません。神の裁きが完全な赦しと救いを実現させるのです。
 この新しさは復活のキリストとの出会いから理解することが出来るのではないでしょうか。復活のキリストは、朝早く行く手に立って「おはよう」と語られました。復活のキリストに出会った人々のいうことを信じない人々の「不信仰とかたくなな心をおとがめになった」と福音書に記されています。そして、「信じて洗礼を受ける者は救われる」と語られました。
 復活のキリストのお姿、お語りになった言葉に新天新地を見いだすことが出来るのではないでしょうか。復活の主イエスは、十字架途上の主イエスを裏切ったことなどを復活後蒸し返して問い正すことは一切ありませんでした。サタンの敗北と最後の裁きを通して、新天新地の世界に招いておられると思います。新天新地は、完全な裁きによって、完全な赦しを確信させてくれます。この地上の悪と罪が最後に勝利するのではなく、バビロンが滅びサタンが敗北して、神が勝利するのです。そして、神の正義による裁きが行われるのです。ここに私たちの新しい命が与えられるのです。神の勝利、ここに希望があります。世界の希望があります。
 洗礼の恵みを通して、私たちの外なるバビロンもサタンも敗北します。私たちの内なるバビロンもサタンも滅ぼされ、赦しの恵みに与るのです。復活のキリストとの出会いはカイノスの出会いです。まったく新しい交わりが備えられているのです。この救いを先取りして、礼拝を献げている群れが教会です。新しいエルサレムである教会を信じて信仰生活を全うしましょう。