「マリアの傍らで」
説教集
更新日:2024年11月30日
2024年12月1日(日)待降節第1主日 銀座教会・新島教会 家庭礼拝 牧師 髙橋 潤
ルカによる福音書1章26~38節
26 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。27ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。28 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。30 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。31 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。32 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。33 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」34 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。37 神にできないことは何一つない。」38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
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Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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本日より待降節、アドヴェントに入りました。世の中はすでにクリスマスの装いを見せていますが、キリスト教会の暦では本日から新年がはじまります。クリスマスまでの期間は、まだ救い主がお生まれになっていない日々を心して歩むことになります。
救い主が到来するまで、私たちはどのように過ごしたら良いのでしょうか。キリスト者としての待降節の過ごし方はどのような生活なのでしょうか。待降節の過ごし方の基本は、救い主イエス・キリストを待ち望む姿勢を整えることに尽きると思われます。救い主を迎える姿勢とはどのような姿でしょうか。
本日の御言葉は、受胎告知と呼ばれる聖句です。この聖句を題材に多くの画家が「受胎告知」と呼ばれる聖画を残しています。2003年日本聖書協会から出版された「アートバイブル」を開くと「天使の訪れ」として、「受胎告知」四作品の絵画が掲載されています。15 世紀フランチェスカの受胎告知、17 世紀グレコが描いた受胎告知、15 世紀ペリーニの受胎告知、そして 17 世紀ジェンティレスキ(父娘)の受胎告知です。どの作品にも大きな羽を持つ天使とマリアが描かれています。それぞれの作品でマリアの姿勢と表情が違います。天使の前でマリアが両手を胸に交差している姿、右手の手のひらを天使に向けて開いている姿、天使から身を引きぎみに立って右手を開いている姿が描かれています。それぞれの作品によって微妙に違いがあり、作家の意図を探ることなど大変興味深い聖画だと思われます。
驚き、恐れ、不安を持ちつつも、神の圧倒的な恵みに支配されて、平安、信頼、信仰を受け取りはじめるマリアが描かれているのではないかと思いました。このマリアの姿勢が待降節に与えられる信仰者の姿勢を整えるために大切ではないかと思います。
神は天使ガブリエルをマリアのところに遣わしました。神はダビデ家のヨセフのいいなずけすなわちヨセフの婚約者であるおとめのところに天使を遣わしました。神はなぜマリアを選んだのか、その理由は聖書には記されていません。しかし、決定的なことが記されています。それは天使の言葉です。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」です。
受胎告知の聖句を通して私たちに与えられている最も大きな恵みは、マリアとともに天使の声を聞いている場に私たちが招かれているということではないでしょうか。私たちがマリアの立場になることは出来ませんし、私たちはマリアのように天使ガブリエルが遣わされるのを待つことが信仰生活ではないと思います。そうではなく、この御言葉が私たちに伝えられていることの重要な意味は、マリアの傍らで、天使ガブリエルの言葉を聞くことだと思うのです。
聖書が語る待降節の物語の決定的瞬間が受胎告知です。この天使の言葉から神さまの救いのご計画が明らかになります。天使ガブリエルの言葉をマリアと共に聞く事を通して、おとめマリアが主イエス・キリストの母になることを知ることになります。ルカによる福音書を通して、私たちはマリアが待降節の物語の最高の頂点にいることを体験することになります。天使ガブリエルの言葉は、マリアに神を信じる信仰を与える言葉になります。天使から逃げることもなく、顔を伏せることもなく、天使の前に神の言葉を受け入れる受容の姿勢が与えられるのです。信じない世界ではなく、信じる世界です。俗なる世界のただ中に聖なる空間があることを知るのです。待降節は私たちの日常生活がどんなに変わらないように思えても、決定的に違う聖なる空間に招かれていることです。私たちは受胎告知に立ち会うことを通して、神の言葉をマリアと共に聞き、信じるものにされるのです。
マリアは天使ガブリエルの言葉を聞き続けます。天使の言葉を聞いて考え込んでいるマリアに天使は語り続けます。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。31 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。32 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。33 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
天使ガブリエルは、御前に恐れおののくマリアに対して「恐れることはない」と語ります。神の母になるということは、マリアにとって神のご計画に身も心も全てを委ねるほかないということを受け入れはじめます。マリアは、ただひたすら信じて祈るのです。神は天使を遣わしてマリアに信仰を与え、救いのご計画を語っているのです。
信仰を与えられて戸惑うマリアに対して天使は、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。37 神にできないことは何一つない。」と語ります。そして天使の言葉にマリアはこのように答えます。38 節「マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
天使の言葉を聞いたマリアの一声は「わたしは主のはしためです。」という言葉です。この言葉は、マリアが 46 節以下で歌う「マリアの賛歌」にも登場します。マリアは「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださった」と歌いました。
信仰を与えられたものは、自分人が神の御前で「主のはしため」であると答えるのです。
マリアにとっても私たちにとっても「主のはしため」という言葉が大切です。待降節を迎えるための基本姿勢がこの言葉に示されているのです。神の御前にひざまづき、語る「主のはしため」という姿勢は、当時の人々には理解されなかったことでしょう。一般的にもこの素晴らしさを理解することは困難なことでしょう。しかし、天使を通して神のみ声を聞いた者には必然的な姿勢なのです。地上の人々から評価を得ることが出来なくても、聖なる空間において、神の御前で主のはしためであることを感謝して受け入れることは最も大切な姿勢なのです。私たちは「主のはしため」ですと語るマリアの声とその姿を見て、姿勢を整えたいと願います。
マリアは「主のはしため」です。しかし、何ももたなくても、マリア自身主のものとされていることを信じて、唯一の救いに与る恵みに包まれています。主が助けて下さる。主が守って下さる。主のものとされていると確信して、救い主を待つものに与えられる安心と信頼に生きるのです。「主のはしため」は、ギリシャ語では、「ドゥーレー」と記されています。この言葉は、「ドゥーロス」の女性形です。ドゥーロスは、主の僕のしもべ、主の奴隷です。聖書は主に従う者をドゥーロスといいます。すなわち、主を信頼し、信じ、祈り、主にのみ尽くす奴隷とされていることを喜ぶのです。神の御前において主のはしためであると語ることは、婚約中のマリアが婚約者ヨセフではなく聖霊なる神によって身ごもるという前代未聞の事態に遭遇しても、主のはしためは神によって守られるのです。
神の御前に立つ者のなかに、「はしため」でないといえる者がいるでしょうか。この世の地位がどんなに高くても低くても、信仰を与えられたものは神の御前に「はしため」です。この世において、主が愛してくださり、天使とマリアの言葉を聞く者は、主に選ばれ愛され赦される、主のはしためであると告白することが赦されているのです。
大切なことは、主のはしためすなわち主の奴隷であることを自覚することです。主なる神以外の何ものに対しても、奴隷にならないのが主のはしためです。私たちはたったお一人の父子聖霊なる三位一体の神のはしためなのです。神以外の誰に対しても服従しなくて良いのです。
主のはしため、主の奴隷は、主の愛の力に包まれているのです。マリアは恐れも不安も、神の御前に委ねています。神はこの私のために神の正義を貫いて、私たちのために身代わりとなって戦ってくださる、たとえ濡れ衣を着せられていても、陥れられることがあろうとも、この私のために神の正義を貫いてくださると信じているのです。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」とマリアが語ることをその傍らで聞きマリアの賛歌を共に歌い始めるのが待降節を生き生きと生きる姿勢ではないでしょうか。
クリスマスを待つ待降節は賛美の季節です。天上の天使たちの賛美に負けないくらいに高らかに主を賛美します。私たちはこの社会の中でどんな状況にあっても、自分自身が主の僕であることを感謝して生きるのです。人生において八方塞がりになってしまうことがあるかもしれません。しかし、そこでこそ思い出すことが私は主のものであると、神によって救いの印を付けられている信仰者であることを思い出して、立ち上がるのです。
マリアは主イエスを身ごもるという、絶体絶命の危機の中から救われました。神はヨセフを用いてマリアを守りました。フィリピの信徒への手紙 2 章に記されています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」
クリスマスの主イエスご自身も「僕の身分」になったと記されています。最も低きに降られた主イエスを「神は高く上げ」てくださいました。僕の身分となってくださる主イエスの降誕を心より待ち望み、私たちこそ主のはしためとしての姿勢を整えたいと願います。
天の父なる神さま。神の力に包まれたマリアは、この地上ではどんなに心細く、みじめで弱さを覚えたことでしょう。しかし、あなたの力に包まれ、主のものとされて、主の救いのご計画に従いました。救い主の降誕を待つ日々、あなたの力に包まれて、主のものとされていることを忘れることなく、一歩一歩進めることが出来ますようにお導きください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン