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銀座の鐘

「主を否む弟子」

説教集

更新日:2025年03月29日

2025年3月30日(日)受難節第4主日 銀座教会・新島教会 家庭礼拝 牧師 髙橋 潤

マタイによる福音書26章69~75節

 本日の御言葉は、主イエス・キリストの12弟子の中でも代表的な一人、シモン・ペトロが三度も主イエスを知らないと語り、涙を流したことが記されています。75節に記されている通り、主イエスがペトロに「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた言葉をペトロは思い出しました。主イエスが逮捕される前にペトロに伝えていた言葉です。主イエスはなぜペトロの裏切りを予告したのでしょうか。主イエスは裏切るペトロを見つめながら十字架刑に処せられたように思われます。
  主イエスはガリラヤ湖の漁師をしていたペトロと弟アンデレに人間を取る漁師になりなさいと声をかけ、弟子にしました。ペトロたちは即座に主イエスに従いました。人々が主イエスのことを「洗礼者ヨハネ」だとか預言者「エリヤ」だとか「エレミヤ」だという声を聞いていたときのことです。主イエスが弟子たちに「それではあなたがたは私を何者だというのか」と問われたことがあります。ペトロは真っ先に「あなたは救い主、生ける神の子です」と答えました。ペトロの信仰告白です。その直後、主イエスは自分が苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっていると受難予告をされました。この主イエスの言葉を聞いて、ペトロは主イエスに「とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と主イエスをいさめました。その時、主イエスはペトロに対して「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者。神の事を思わず、人間のことを思っている。」とペトロを厳しく叱りました。
 三度知らないと主イエスを裏切ったあと、主イエスは三日目に復活されました。復活の主イエスはペトロにご自身を現されました。ペトロの晩年についての言い伝えでは、初代教会において最も重要な伝道者となり、ローマに滞在して、皇帝ネロの時代、殉教の死を遂げたと伝えられています。主イエスに叱られたり、主イエスを裏切ったペトロが最後には殉教する伝道者に変えられました。
 ペトロが主イエスを三度も知らないと裏切った話は、4つの福音書すべてに記録されています。これは、初代教会において、伝道者ペトロが自分自身の主イエスへの裏切りの話を繰り返し繰り返し語っていたことの表れではないかと思います。ペトロ自身、初代教会の指導者になっても、この主イエスを裏切って泣いたことを誰の前であろうとも語り続けた結果ではないかと思います。ゆえに四福音書すべてに、ペトロの裏切りと涙の話しが記されたのではないかと想像します。そうであれば、ペトロにとって、主イエスを裏切って涙を流した事実は、単なる人生の汚点としてではなく、神のみ前に明らかにされ、隠すことのできない主イエスの御前での大切な物語になっていたのでしょう。ペトロにとって、自分自身の信仰生活の最も大切な物語になったのでしょう。生涯主イエスに従うペトロの伝道者としての本当の始まりは、ガリラヤ湖であるより、この涙から始まったといっても良いのではないでしょうか。十字架刑に処せられる直前に主イエスを裏切った事は、ペトロ自身の弱さ、惨めさを知り、神の御前で罪を自覚するための大切な経験になったのです。自分の至らなさの自覚だけでとどまるのではなく、神の愛へと向かわせることになったのです。あの涙ゆえに復活のキリストに出会い、神の憐れみと赦しをいただくことが出来たのです。最も大きな裏切りという挫折の涙から、ペトロは主イエスの真の弟子としての道を示され、神の恵みを受けて真の弟子へと成長したのです。
 このペトロの物語は、主イエスが漁師ペトロに声をかけたこと、主イエスを神の子と告白したこと、主イエスに叱られたこと、主イエスの十字架の苦しみを目の当たりにしたこと、これら全てを通して、主イエスがペトロを愛し抜いた物語なのです。主イエスはペトロの弱さもみじめさもよく知って、そのうえでペトロを愛し抜いてくださったのです。
 この主イエスとペトロの関係は、私たちの信仰生活と無関係であるといえるでしょうか。主イエスは、ペトロの裏切りを予告していました。主イエスはペトロが一番弟子で、最近少し調子に乗っているからペトロの鼻をへし折ってやろうなどということではないのです。そうではなく、主イエスは誰よりもペトロの弱さを承知の上で、ペトロを最後まで愛し抜く覚悟で、ペトロと関わり続けているのです。主イエスは、ペトロが主イエスの愛に気付くまで、関わり続けたのです。だとすると、ペトロが涙を流した話は、ペトロが主人公ではなく、主イエスが主人公である神の愛の物語であり、主イエスが主人公として読む必要があると思うのです。主イエスが裏切り者のペトロをどん底から引き上げる力を発揮されたのです。主イエスがペトロを真の弟子にして下さる話なのです。主イエスの愛は、罪にまみれた人間に関り続け、神の愛という恵みが勝利することを教えているのではないでしょうか。この挫折から立ち上がっるペトロを通して、罪にまみれた私たちの罪を克服する道は、私たちの気持ちとか私たちのやる気とか、私たちの愛とかではなく、主イエスの愛こそが私たちを造り変える力の源であり、神の愛の御業であることをペトロ自身の証しとして聞くのです。ペトロの経験は私たちの信仰生活にとっても大切な経験になるのです。
 神はペトロだけを愛したのではなく、ほかの弟子たちも私たちも愛されます。神はここに集まる私たちを愛し抜いて下さるお方なのです。私たちは、自分が神さまにふさわしくないと考えてしまいます。ペトロのこの物語を通して、相応しくない私たちを最も深く愛して、関わり続けてくださる主イエスによって、ペトロのように造り変えていただけることに希望を見出したいと思います。主イエスが主人公としてみ言葉を読みます。
 主イエスはペトロが大祭司の中庭で座っているのをご存じでした。主イエスは最高法院へ連行され、乱暴に取り扱われる時、裁判の時、どのような審きを受けることになるのか、心配しているペトロを見守っていたのです。ペトロが見守っていたのではなく、主イエスがペトロを見て下さったのです。主イエスはペトロのところに「一人の女中が近寄って」行き、女中がペトロに対して「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言ったのを共に聞いていたのです。中庭のペトロのまわりにいた人々に聞かれたことも主は聞いていたのです。主イエスと一緒にいたことが判明したペトロが主イエスのように連行されて裁判にかけられることを恐れているペトロの心を主は見通しているのです。ペトロが皆の前で、私は主イエスと無関係だというために、女中の言う言葉を打ち消して、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」という言葉を主イエスは受け止めて下さっていたのです。ペトロは中庭から門の方に行き、大祭司の庭から出て、主イエスから何とか離れようとしているペトロの心を見抜いていたのです。主イエスは女中がペトロを見つけ、ペトロを指さして、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言われ、恐れおののくペトロを知っているのです。ペトロが再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消したペトロの声を主イエスは聞いてるのです。主イエスは十字架を目前にして、ペトロの心も体も見抜いていたのです。主イエスご自身を呪う声まで聞いておられたのです。主イエスはペトロの弱さをつぶさに見て聞いておられたのです。主イエスはペトロの正体を承知の上で、愛し抜く決断をされたのです。
 私たちはペトロと同じように、自分自身の命の危険を感じるとき、この方こそ、私たちの救い主、神の子ですと告白することができない者です。主イエスはあの日のペトロを予告するほど、全てをご存じで見抜いているお方です。主イエスは、私たちが命の危機を感じるとき、主イエスを裏切ってしまう弱さ惨めさを誰よりも深くご存じなのです。主イエスは私たちの弱さを受け止めながら、十字架への道を歩き続けてくださるのです。私たちにとって、主イエスを裏切る自分自身を主イエスが見抜いておられることが大切なのです。ペトロが自分の力でもっと頑張っていれば、裏切らないで済んだということでしょうか。当初のペトロは自分が主イエスを救い主と信じる力により頼んでいました。ペトロの頑張りや力で自分の信仰を証明しようと考えていました。しかし、ペトロの自力では、主イエスを裏切ることはあっても、主イエスに従うことは出来なかったのです。
 私たちが主イエスを救い主と信じる信仰は、私たちの力で何とかなることではないのです。主イエスがペトロの弱さをしっかり見続けてくださったように、主イエスが私たちを見つめ続け、愛し通してくださる恵みにすがるよりほかに救いの道はないのです。私たちの人生の主人公は私ではなく、主なる神であることをわきまえることが信仰です。
 もう一つ、ペトロが主イエスを裏切った話があります。ゲツセマネの祈りの時です。主イエスが三度祈られた時、ペトロたちが三度眠り込んだことが記されています。主イエスはマタイによる福音書26章36節以下でゲツセマネの祈りを祈られました。あの日、主イエスは弟子たちに、祈る主イエスから離れないで共に目を覚ましていなさいと伝えました。しかし、弟子たちは眠りこんでしまいました。わずか一時でもわたしと共に目を覚ましていられなかったのかと言われました。誘惑に陥らぬように目を覚まして祈っていなさいと教えられました。しかし三度も主イエスと共に祈ることができなかった弟子たちの姿が明らかにされています。主が祈っているのに三度、眠ってしまったこと、三度主イエスを否んだことを通して私たちの弱さが御前に明らかにされているのです。しかし、主イエスはそのようなペトロと弟子たちのために祈り続けてくださったのです。主イエスの祈りは十字架上でも続けられました。ルカによる福音書22章31節以下
「31 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。32 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」」
 主イエスは、私たちのために祈り続けておられるお方です。受難節の日々、主イエスは私たちのために昨日も今日も明日も祈り続けていることを信仰をもって心に刻みましょう。私たちはその恵みをしっかりと受け止めるとき、生まれ変わるのです。祈られているゆえに、シモン・ペトロの弱さみじめさを主イエスが担って下さいました。主イエスの祈りに支えられてペトロが罪から立ち上がったように、受難節は私たちが造り変えられる時なのです。主の祈りによって作り変えられる日々を歩み通しましょう。
 信仰生活の主人公は、私たちではなく、私たちのために祈り続け、私たちの罪を担ってくださる主イエス・キリストです。自分の力を信じることから解放されて、主イエスの恵みを信じて生きる信仰生活を全うしたいと願います。
 十字架へ進まれる主イエスに見つめられていることを覚えて、主イエスに従う信仰生活を歩みたいと願います。